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第205回 神殿の垂れ幕が裂けた

聖書=マタイ福音書27章50-54節

しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

 

 今年(2023年)のイースター(復活節)は4月9日です。キリスト教会では、それに先立つ46日前の水曜日を「灰の水曜日」と言い、その時からイースターまでの期間はイエス・キリストの受難を覚えて悔い改めの期間として過ごします。今年は2月22日(水)が「灰の水曜日」です。イエスの受難を覚えて過ごしましょう。

 ここには、イエスの最後とそれによって引き起こされた出来事がまとめて記されています。「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」。この「大声」の内容は記されていません。ルカ福音書が伝えている「成就した」(ルカ福音書19:30)という言葉ではなかったでしょうか。救い主キリストとしてのみ業を完了して息を引き取られたのです。

 「そのとき」という副詞句に導かれて51節以降に記されているのは、イエスの十字架の出来事によって引き起こされた事柄です。その中で最も大切な出来事は、「神殿の垂れ幕」が「上から下まで真っ二つに裂けた」ことです。エルサレム神殿の内深く聖所と至聖所とを隔てる幕があります。処刑場のゴルゴダの丘から見ることは出来ません。福音書記者のマタイが、後に福音書執筆の段階で、十字架の出来事の意味を示す大切な事件として付記したのです。

 「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という事実は、神殿に仕える祭司たちだけが知ることが出来た秘密の暴露とも言えます。後に、祭司も多くキリストを信じるようになりました(使徒言行録6:7参照)。彼らがイエスが十字架で絶命した丁度その時、「聖所と至聖所を隔てる神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と、教会側に伝えたのです。

 福音書記者マタイは、イエスの十字架における死に神の御子の血による贖いを見ています。その故に、ゴルゴダの丘から遠く離れたエルサレム神殿の内奥で起こった「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」事件を、十字架によって引き起こされた大切な出来事として付記しているのです。「神殿の垂れ幕」とは、神殿の最も内奥、神の臨在の場と言われる至聖所に入る道を隔てる幕のことです。この垂れ幕が存在していることは、罪人から神に至る道が閉ざされていることを示していたのです。

  しかし、大祭司だけが、年に一度、その垂れ幕を通って、神殿の奥、至聖所に、小羊の血を携えて入り、「民の罪の贖い」の儀式を行いました。聖書は「血を流すことなしには、罪の赦しはありえない」(ヘブライ書9:22)と記しています。民の罪の身代わりの血が献げられたのです。旧約時代は小動物の血が流されました。しかし、動物の血で人間の罪を贖うことは出来ません。贖いの真実を示し教える1つの型であり、影であり、教材でした。

 イエスは、キリストの民の大祭司としてご自身の血を流して、その血をもって贖いをしてくださったのです。「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブライ書9:12)。イエスの十字架は、わたしたちの大祭司であるイエスが、罪の償いとして完全な贖いをしてくださった出来事です。

 神と人とを隔てる垂れ幕が完全に裂けたということは、神に至る道が完全に開かれたということです。神と人とを隔てる幕は不用になりました。罪が償われ、神と人が交わりをする道が開かれました。神殿の務めが終わったのです。人は、キリストを信じて、キリストにあって、自由に父なる神の元に行くことができます。「兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(ヘブライ書10:19-20)。

 もう一つの大切な出来事は、イエスの十字架処刑を担ったローマ軍の兵士たちの信仰の告白です。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」。百人隊長に率いられたローマ軍の兵士は異邦人です。先ほどまでイエスを侮辱し、鞭打ち、罵り、ユダヤの偽王として嘲弄していました。この人たちはイエスを処刑し「見張りをしてい」ました。十字架の出来事を初めから終わりまで見つめていました。イエスの言葉を聴き、イエスの振る舞いと死のすさまじさとを見ていました。共に十字架に付けられた強盗に対するイエスの取り扱いも注視しています。

 その中で、百人隊長を始めとして兵士たちの心が変わり始めたのです。単なる罪人の処刑ではない。恐れとおののきを感じ始めました。「この方は、どなただろう」と問い始めたのです。その問いの結果が「本当に、この人は神の子だった」という告白に至ったのだと言っていいでしょう。福音書記者マタイは、ここに、異邦人の信仰告白の始まりを見ているのです。イエスの十字架をしっかり見つめるところで、このような信仰の告白に導かれていくのです。