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第201回 あざけられるイエス

聖書=マタイ福音書27章27-31節

それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。

 

 総督ピラトによって、イエスは「十字架につけるために引き渡」されました。十字架処刑を実施するのはピラトの指揮下にあるローマ軍の務めです。ここには、ローマ軍の兵士、「総督の兵士たち」の振る舞いが記されています。しばしば多くの注解、講解では省略されてしまう個所ですが、イエスの受難では大きな意味を持つところです。

 「総督の兵士」であるローマ軍の部隊は、言わば占領軍です。占領地のユダヤにあっては極めて優越的な位置にあります。紀元1世紀のイエスの時代になると、ローマ軍も生粋のローマ人だけの軍隊ではなくなっています。ユダヤ人は入隊しませんが、ローマ帝国の多くの植民地出身の軍人・兵士がローマ軍の構成員を占めるようになっていました。

 福音書を読むと、ローマ軍の将校や兵士たちの中にもユダヤ人に好意的な人たち、ユダヤ教に理解や関心を示す人たちもいたことが分かります。イエスに助けを求めた百人隊長もいました。しかし、これらの人たちは極めて例外でした。大多数は、ローマ帝国の権力を誇示し、利益を求め、ユダヤ人を蔑視する人たちでした。

 彼ら兵士たちにとって、「ユダヤ人の王」という反逆罪によって処刑されるために引き渡されたイエスは格好の獲物でした。ユダヤ人に対する日頃からの差別意識が公然と噴き出したのです。うっぷん晴らしです。誰にも文句は言われません。「ユダヤ人の王」が徹底して公然と嘲弄され、あざけられ、痛めつけられます。死刑の執行を委ねられた部隊・百人隊の全員に取り囲まれて、侮蔑のための「偽王の戴冠式」が行われました。

 先ず、イエスの着ている物をはぎ取り、裸にした上で、王の着衣を模した赤い外套を着せ、茨で編んだ王冠を頭に載せます。頭から血が流れたでしょう。また、王の持つ王笏を模して右手に葦の棒を持たせました。そして、兵士たちはその前にひざまずいて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱したのです。これだけのことをするのには相当な時間がかかったでしょう。

 一通りの侮蔑の戴冠式が終わったら、唾を吐きかけ、葦の棒を取って頭をたたき続けました。ここに記されている出来事は、日頃のユダヤ人への差別とうっぷん晴らしです。自分たちをいつも「異邦人」と言って軽んじ、占領軍である自分たちを事ごとに無視したり、無力であるにもかかわらず傲慢にしているユダヤ人への嘲りがなされたと言っていいでしょう。

 このようにして、第Ⅱイザヤと言われている旧約の預言者が語る「受難のしもべ」の言葉が文字通りに成就したのです。「この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」(イザヤ書53:2-4)。

 わたしたちは、極みまでの侮辱、ののしり、軽蔑の言葉、痛みつけられる肉体的、精神的な苦痛を耐えられたイエスの忍耐をしっかり見つめねばなりません。大祭司の手先たちによって捕らえられてから、イエスは眠ることも出来ず、休みは全くありません。大祭司カイアファの法廷での審問、ユダヤ人たちの嘲笑と殴打、ピラトの法廷での審問と鞭打ち、ローマ軍の兵士たちによる「偽王の戴冠式」による嘲弄、侮辱と打ち叩きと続いています。イエスは、生身の肉体を持つ人間としてこれらの精神的、肉体的な拷問を受け続け、耐え続けたのです。

 使徒ペトロは、イエスの受けた精神的、肉体的な拷問と迫害とをその目で見た証人です。彼は、このイエスの受難の姿を「傷」と言う言葉で表現しました。イエスの体には無数の傷があったでしょう。傷だらけです。ペトロは、それらすべてを1つの「傷」として受け止め「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(Ⅰペトロ2:24)と記すのです。

 この全身に受けた無数の傷による苦しみを受け続けたイエスの足跡に、弟子であるわたしたちは続くのです。わたしたちの信仰の旅路で受けねばならない苦難は、イエスの跡に続く者に必然のものなのです。苦難に遭遇して驚き怪しむのではなく、キリストに従う者の必然として受け止めることが求められているのです。これからの日本の社会状況において、キリスト者は安楽な生活は期待できません。初代教会のキリスト者の歩みに倣わねばなりません。イエスの跡に続く苦難が待ち構えているでしょう。