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第199回 イエスの沈黙

聖書=マタイ福音書27章11-18節

さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。

 

 再び、マタイ福音書の学びに戻りましょう。ここには、総督ピラトの前に立つイエスの姿が記されています。イエスは2度の裁判を受けました。1つはユダヤ人の法廷です。大祭司カイアファが取り仕切るサンへドリン議会の法廷で、ユダヤ教としての有罪が確定しました。2つが総督ピラトの法廷です。ユダヤ人には大幅な自治が許されていましたが、死刑の宣告と執行はローマ総督の権限でした。そのため、ユダヤ人たちはイエスをピラトに訴え出たのです。

 ここで訴因が変更されていることを見逃してはなりません。サンへドリン議会では、イエスは議会の面前で「神を冒涜した」という神聖冒涜罪で有罪とされました。ところが、ピラトの法廷には「この男はユダヤ人の王を自称している」と内乱罪で訴えられたのです。ピラトの法廷は世俗のローマ法廷です。そこでは神聖冒涜罪では「お前たちの宗教の問題だ」と却下されます。そこで却下されない訴因に変更して訴え出たのです。極めて卑怯なすり替えです。

 そこで、総督のピラトはイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問したわけです。この時代、ユダヤに王がいなかったわけではありません。ヘロデ大王もいました。その子らのフィリポやアンティパス、アケラオもユダヤを分割統治して王とされています。これらの王位はローマ皇帝によって承認されたもので、自称の王の主張はローマへの反逆、謀反とされる重罪です。

 ピラトの尋問に対して、イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答えます。これは「イエス・ノー」ではありません。総督の「あなたが言っていること」だということで、つまり訴えた者たちの主張です、という応えなのです。このイエスの返答に対して、訴え出た祭司長、長老たちから激しい口調と言葉で訴えの正当性が主張されたでしょう。しかし、もうイエスは「何もお答えにならなかった」と記されています。

 不思議な沈黙です。普通、犯罪を犯していても、まして犯していない人は、激しく抗弁します。無罪を勝ち取ろうとして言いつのります。ところが、イエスは何も語らない。ピラトも不思議に思うほどです。処刑への道を自ら受け止めているとしか言いようのない事態です。

 ピラトには、サンへドリン議会側の企みが分かっていました。ピラトには、イエスが無罪であること、イエスが訴えられたのは「ねたみのため」であることが分かっていました。イエスは、ユダヤの民衆、貧しい人たち、病み、苦しみにあえぐ人たちの友となって、彼らをいやし、力づけ、仲間となり、イエスの周りには多くの民衆が取り巻いていました。また、イエスは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(マタイ福音書2:2)ですが、イエス自身「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ福音書18:36)と、はっきり語っているのです。

 自分たちに不都合なイエスを抹殺してしまうために、ユダヤ人の祭司長、長老たちは口々にイエスに不利なことを激しく言い立てます。総督には、それがイエスの無罪性を示すものに思えてきます。ピラトも困ったででしょう。訴える側は激しく訴え続けます。訴えられたイエスは何を言われても一切抗弁しない。無罪の主張もしないのです。

 そこで、ピラトは総督としての奥の手を出します。訴える側もある程度納得し、訴えられた者も実害のない妥協の道です。過越の祭が近い。この「祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしてい」ました。総督の持つ恩赦の権限を使う道です。丁度、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。バラバは暴徒と言われ、ユダヤの多くの人から憎しみを買っていた札付きの人物です。「バラバであれば、だれも選ばないだろう」という思いがありました。

 この頃になると、法廷のことを聞きつけて「群衆」と言われる多くの人が集まって来ました。サンへドリンの議員たちによって呼び集められた人たちです。ピラトは言います。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」と。ピラトは自律した裁判官として立っていません。群衆の選択に任せてしまった。バラバという極悪の重罪人か、キリストと呼ばれているイエスか、どちらかを選べと群衆に委ねたのです。

 ピラトは良心に従って判断する裁判官としての責任を放棄したのです。その結果、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられ、……」と、世界史にイエスを処刑した人物として永久に記憶されることとなりました。ピラトの失敗は、良心に従ってなすべきことを放棄してしまったところにあります。今日の日本の裁判官もピラトのように良心を捨てて時の権力に忖度する人たちが多いのではないでしょうか。