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第194回 「慰め」の到来

聖書=イザヤ書40章1-2節

慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。

 

 わたしたちの世界は今、苦悩と苦難の中にあります。1つは、この数年にわたる新型コロナウィルスによる感染禍です。ウィルスの感染による病苦が激しく人々の日常生活が奪われました。病人の見舞いにも行くことが出来ず、家族の看取りも出来ない。病床が逼迫し、死者も多く出ました。社会も停滞し、貧困・困窮が社会全体を覆っています。

 追い打ちをかける形で、2つはロシアによるウクライナへの侵攻です。この戦争によって多くの人が死に追いやられ、逃げ惑う悲惨を味わっています。直接関わりない人たちにも戦争の悲惨が及んでいます。ロシアへの経済制裁がなされ、結果、日本でも燃料や農蓄産物などの物価が高騰し、庶民の生活が本当に困窮しています。

 クリスマスは、この苦悩と苦難の中にある人たちへ「まことの慰め」が与えられる時、神からのプレゼントが与えられる時です。クリスマスに互いにプレゼントを贈り合う習慣は、この神からのプレゼントに起源があります。イザヤ書40章で語られている「慰め」とは、ホッとくつろぐ時、心が和む時、安堵の息をつく時、と言っていいでしょう。クリスマス頃には、コロナ禍が収束し、またロシア・ウクライナ戦争も終息して平和が回復することを祈ります。

 今回はイザヤ書40章で語られている「慰め」についてお話しします。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」。この「慰め」は、直接的にはバビロンに捕囚となっていたイスラエルの民の解放です。イスラエルの民は繰り返し神に背き、神による審きとして異邦の地バビロンへの捕囚を経験させられます。南王国ユダの人々は紀元前586年、バビロンに捕囚となり、異境の地で長い苦役に服します。この異境の地で苦悩と苦難にあえぐ人々に語られた「慰めの言葉」なのです。

 神が預言者に命じます。「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ」。厳しい審きの言葉を語るのではない。「慰めの言葉」を語りかけよと命じるのです。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と。乱暴に語るのではありません。聴く者の心に染み渡るように、恋人にささやくように優しく語りかけよ、と言われます。この「慰めの言葉」は実体をもっています。舌先の言葉だけの慰めではありません。「苦役の時」は終わったと告げます。仮釈放ではなく、苦役が完了したのです。実際に解放を告げる言葉です。ここで直接的に語られているのは、歴史的な出来事としてのバビロン捕囚からの解放です。

  この神の解放の宣言は、直接的にはバビロンに捕囚になっていたイスラエルの民に対するものです。この「解放の言葉」に導かれて、イスラエルの多くの人々は、エルサレムに帰還し、神殿を再建することとなりました。しかし、第Ⅱイザヤと言われている預言者の視線は、歴史の出来事をはるかに超えています。実際には捕囚からの解放が告げられても、すべての人がエルサレムに帰還したわけではありません。バビロン周辺に住み着いた人、各地に離散した人もいました。

 この「慰め」の言葉は、バビロン捕囚のイスラエルの民の解放で成就したわけではありません。一時の歴史の事実で完了するものではありません。イザヤ書40章以降は第Ⅱイザヤと言われる無名の預言者の言葉と言われています。この預言者の視線は、歴史を超えて遙か彼方に及んでいます。預言者は何を語ろうとしているのでしょうか。「慰めの言葉」を語りかける対象は、苦難の中にある世のすべての人々です。

 第Ⅱイザヤと言われる預言者の語る「慰めの言葉」は、捕囚の民をはるかに超えています。「慰め」を必要としている苦悩と苦難の中にいる世界中のすべての人たちに向けられているのです。死の陰に座す人たち、戦いにおののく人たち、労苦に苦吟するすべての人たちに向けて語られている喜びの知らせ、福音なのです。あなたがたは、神から慰めを得るのだ。神から赦され、解放の恵みにあずかっているのだ、と。

 「苦役の時は今や満ち」たからです。「彼女の咎は償われた」からです。世界中の人々を苦悩の淵に沈めていた根本的な罪の負債が償われたからです。神ご自身が「罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた」と確認したからです。ここに語られている「彼女の咎の償い」は、いったいだれが償ったのでしょう。バビロンに捕囚になった人々でしょうか。決してそうではありません。彼らの労苦がどれほどであっても、罪や咎を帳消しになど出来ません。

 神の一方的な憐れみの故なのです。この第Ⅱイザヤの預言の中で、「わたしの僕」という人物が登場します。「苦難の僕」「受難の僕」と言われ、この僕の苦難によって罪と咎が償われ、贖われたと語られます。この「苦難の僕」こそ、イエス・キリストにおいて成就したのです。イエス・キリストが十字架で担った苦難こそ、わたしたちの罪を贖い、神との和解をもたらし、神と共に生きる新しい世界をもたらしたのです。クリスマスは、この「慰めの言葉」を聴く時なのです。