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第191回 イエス、裁判を受ける

聖書=マタイ福音書26章59-66節

さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。

 

 逮捕されたイエスは、大祭司カイアファの屋敷に連行されました。そこには律法学者と長老たちも集まっていました。彼らは「最高法院」と呼ばれるユダヤ人の最高議会の議員です。祭司24人、律法学者22人、長老24人の70人によって構成され、時の大祭司が議長を務めます。この議会にはユダヤ人の日常生活、宗教生活を監督する自治が認められていました。死刑の宣告と処刑の権能はローマ総督が持っていました。

 イエスを逮捕してから招集したのでなく、すでに集まっていて、イエスを捕らえ処刑することを了解していました。ここには、イエスを処刑するための理由探しのような裁判が記されています。どう結論に導いていくかだけです。イエスを処刑する証拠を捜します。当時の証拠は証人ですが一人の証言だけでは決定できず、二人以上の証言が合わなければなりません。多くの人が有罪とする根拠を語りますが一致したものは出てきません。

 証言が合うものがありました。イエスの神殿破壊についての発言です。宮きよめの時に語った言葉です。しかし、神殿を3日で建て直すことは常識で考えても不可能で取り上げることは出来ません。イエスが語ったのは建物のことでなく自分の復活を語っていたのです。弟子たちも直ぐには分からず、後になって分かったほどです。他に証言は出てきません。

 大祭司は苛立ちます。イエスを罪に定める証拠が見つからない。イエスは不利な事が次々に語られても弁明せず沈黙しています。苛立った大祭司は、直接イエスを問い詰めます。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と。イエスを冒涜罪で訴えることの出来る危険な質問です。もし、イエスが自分の神たること・神性を主張すれば、彼らは神を汚したとして有罪とします。逆に自分が神の子であることを否定したら自己否定になります。

 議員たちも、質問の重大性に気付いてシーンと静まった。沈黙を守ってきたイエスは、大祭司が問う以上のことを語ります。「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と。ダニエル書7章13節の引用です。この箇所を引用をした理由は、「人の子」であるイエスの神性の主張であると共に、大祭司を始め当時の人が持っていたキリストについてのイメージを修正する意味を持っています。

 当時、「キリスト」つまりメシアは政治的な意味を含む言葉でした。ユダヤをローマ帝国の桎梏から解放する政治運動を行う者が「メシア」と言われていました。熱心党の運動があり、少し後には「メシア」を自称するバル・コクバの反乱が起こります。このような政治運動によってユダヤを解放するメシアではないという主張です。ダニエル書7章13節からの引用は、イエスが神の子、神と等しいものという主張です。「人の子」とは、人間の子というだけでなく、神に等しい存在という意味を持っています。人の子と呼ばれるメシアは全能の神と共に永遠の主権を持つ方として描かれているのです。イエスは、ダニエル書を引用して、政治運動としてのメシアではなく、神と等しい者であると決定的に語ったのです。

 裁判として見た場合、決定的にまずいことを語った。自分で自分を罪に定めたのです。しかし、これこそ譲ることの出来ないことでした。大祭司は、この言葉を聞くと、もう証拠はいらない、議会の中ではっきり自分を神と等しいとする言葉を語った、死に当たると宣告します。ユダヤ人にとり「神を汚す」ことほど恐るべき罪はありません。普通なら徹底して避けるべきです。イエスは「神と等しい存在である」と貫いたのです。

 なぜ、イエスはあえて神の子であることを主張したのでしょう。ハイデルベルク信仰問答の問17で「なぜ、その方(イエス)は、同時にまことの神でなければならないのですか」と問います。答は「その方が、ご自分の神性の力によって、神の怒りの重荷を、その人間性において耐え忍び、わたしたちのために義と命とを獲得し、……」と記します。ここに、イエスが神の子であることの必要が語られているのです。イエスは「まことの人」として、わたしたちの罪を担います。人間の罪は同じ人間によって担なわれ、償われるのです。

 ハイデルベルク信仰問答では、イエスが人として神の裁きに耐えることが出来たのは、その背後にある「神性の力によって」出来たのだと述べているのです。イエスが「まことの神」であり、神としての力があったからこそ、人としてイエスは罪の裁きに耐えることが出来たのです。イエスが神のみ子であることを徹底的に主張したのは、わたしたち罪人の救いがかかっているからです。ここにイエスの戦いがあったのです。