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第189回 ゲッセマネの祈り

聖書=マタイ福音書26章36-42節

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

 

 有名なイエスの「ゲッセマネの祈り」です。イエスは最後の晩餐を済ませると弟子たちを連れてオリーブ山に向かいます。オリーブ山の中腹にゲッセマネの園があり、イエスは園の入り口で弟子たちに「ここに座っていなさい」と命じます。祈りの間、邪魔されないように見張りの役を命じたのです。さらに、ペトロとゼベダイの子ら、ヤコブとヨハネの3人を連れて園の奥に行きます。イエスはこの時から「悲しみもだえ始められた」。3人には「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と命じます。この3人を連れて行ったのは、イエスの苦闘の祈りの目撃者としたのだと言ってよいでしょう。

 3人の弟子からも少し離れて祈り始めました。イエスのゲッセマネの祈りは、どのような祈りなのでしょうか。「神よ、助けて下さい」と、助けを求める祈りでしょうか。そのような普通の祈りと違います。イエスのゲッセマネの祈りは神のみ心を求める祈りでした。イエスは3度祈ったと記されています。しかし、祈りの言葉が記されているのは2度です。2つの祈りの言葉はよく似ているようですが違いがあります。

 イエスは最初に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」と祈ります。神のみ心を求める祈りと言ってよいでしょう。「できることなら」とは、「神の御計画にかなった仕方でも、なお可能であったら」ということです。「この杯」とは十字架の苦難のことです。イエスにとって十字架は深い苦悩の道です。出来たら避けたいのが願いです。「十字架の苦難なしでも人類を救うことが出来るのでしたら」ということです。罪人を救うことがイエスの十字架なしでも可能であるのなら、出来たらその道を進めてほしいという祈りです。

 イエスは、救い主としての使命を捨てたのではありません。十字架の苦難の深刻さのゆえに、その苦難のない道を父なる神に求めたのです。神に出来ないことはありません。しかし、父なる神はお応えになりません。イエスの祈りに対して父なる神は沈黙しています。神の沈黙は、神がいないのではありません。神の沈黙は神の強固な意志の表われです。父なる神は、イエスの十字架の苦難抜きの救いについて何もお応えになりません。父なる神の意志は明らかです。愛にして義なる神は、イエス・キリストの十字架の苦難を通して、罪を罪として処罰し、それによって罪人を救うことを計画されたのです。これが父なる神の選んだ救いの道なのです。

 ゲッセマネの祈りとは、この父なる神の定めた罪人救済の道を、イエスが自らの意志で選び取ってゆくためのものなのです。父なる神の強制ではなく、父なる神の救済の計画を自らで選び取っていくのです。十字架の苦難を自ら選びとってゆく。そのために、イエスは悲しみもだえ、苦闘したのです。この祈りの中で、父なる神とイエスとが激突しているのです。

 2回目の祈りで、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と祈ります。これは、父である神のみ心に服する祈りです。イエスは祈りの中で、父なる神の罪人救済の計画、十字架の道を「この杯を飲むほかに道はない」と最終的に受け入れたのです。「わたしの願い」ではなく、「父のみ心」に自分を明け渡したのです。父である神の救いのご計画に自分の意志を最終的に服従させたのです。

 もし、イエスが十字架の苦しみを回避したらどうなっていたでしょう。罪人の救いはありません。人となった神のみ子が十字架で死んだことにより「罪の贖い」が成就するのです。イエスは祈りの中で、罪人の救いのためにイエスを十字架につける父なる神の計画の御心に完全に服したのです。イエスは自分の意志をもって十字架を受け止めたのです。

 イエスは、この後直ぐにイスカリオテのユダの裏切りによって捕らえられ、殺されることを十分に知っています。十字架の苦い杯をいやいや飲むのではない。自分の意志で、父なる神の罪人救済の計画に従ったのです。この内的闘いがゲッセマネの祈りです。イエスはこのようにして、救い主として父なる神の意志に服することによって、救い主としての歩みを全うしたのです。