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第187回 聖餐の恵みにあずかる

聖書=マタイ福音書26章26-30節

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 

 この聖書個所は聖餐(最後の晩餐)設定の場です。新約の祝祭である「聖餐」と旧約の祝祭である「過越」とを混同した議論を聞くことがあります。この2つは、「救出、贖い」の意味を共有しながらも別の事柄です。マタイ福音書では、過越の食事の終わりで、イエス自身が新しく「聖餐」と言われる新約の礼典を制定したことが明記されています。過越の意味を踏まえつつ十字架の贖いの恵みが記念されるのです。

 過越の食事を始め、一同が食事をしている中でイエスと弟子たちとのやり取りがなされました。裏切りの予告です。その後、さらに食事が続けられ、過越の食事が終わりに差しかかったところで、イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われました」。「取って食べなさい。これはわたしの体である」と。さらに、「また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた」。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と。

 過越の食事は、種入れぬパンと苦菜、小羊を焼いた肉です。聖餐は、種入れぬパンとぶどう酒です。イエスが裂いて与えたのは種入れぬパンでした。大きな一枚の「ナン」のような薄焼きパンでした。それを一人ひとりに裂き与えたのです。ぶどう酒は過越の中には登場しません。しかし、ユダヤの食卓では普通に存在していた飲み物です。「この杯から」と言うことは、恐らく大きなカップに用意されていたものを回し飲みしたと言っていいでしょう。

 これが「最後の晩餐」と言われる食事です。「賛美の祈りを唱え」、「感謝の祈りを唱え」と記されています。どのような祈りであったのか記されていませんが、聖餐は神への賛美と感謝の時なのです。聖餐にあずかる配餐者は、パンとぶどう酒を即物的に受け取るだけのことではありません。なぜ、パンを食べ、ぶどう酒を飲むのでしょう。キリストと一つに結ばれていることを表すためです。飲食により、食物が体となるように、パンとぶどう酒を飲食するによって、十字架のイエスと一つに結ばれ一体となることが示されているのです。

 イエスは「これは、罪が赦されるように」と言います。これこそ、聖餐の恵みの内容です。旧約の神殿祭儀を通して「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブライ書9:22)と教えられてきました。罪の贖いのためには、犠牲の血が必要です。イエスはご自身の血を捧げて罪を償い、贖う唯一のいけにえとなりました。これが十字架の出来事です。キリストが十字架の上で流された血こそ、わたしたち罪人の全ての罪を贖うためのものです。これによって赦しが与えられるのです。聖餐にあずかることは、わたしたちの罪が赦されていることの具体的な証しであり、保証なのです。

 聖餐の大事なことは、同じ信仰に生きる者たちと共にあずかることです。1つのパンが裂かれて与えられ、1つの杯から回し飲みします(今日では、これはもう行いませんが)。これが示すことは、この聖餐にあずかる者たちはキリストにあって兄弟姉妹、神の家族であることです。聖餐は、それにあずかる者たちが国籍、人種、性別、階層などのすべての障壁を乗り越えて、1つ神の家族であることを確認する時でもあります。

 聖餐式は信仰者たちのものなのです。パンとぶどう酒を受け取り、飲食することによってキリストの体を食べ、キリストの血を飲むという信仰の奥義にあずかるのです。この奥義は信仰によって受け止められます。一般公開されている礼拝の中で行っていますが、本来、聖餐は信仰者の奥義であることをしっかり受け止めていただきたいのです。求道中の方は聖餐にあずかれませんが、一日も早く聖餐に与かることの出来るようにという祈りの中にあります。信仰を告白し洗礼を受けて聖餐にあずかってほしい、これが教会の祈りです。

 最後に、イエスは「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言います。この言葉によって、イエスはこの食事が地上における「最後の晩餐」であることを語られたのです。同時に、この晩餐はやがて天上の神の国で「あなたがたと共に新たに飲むその日」のあることを示しています。聖餐は未来に開かれています。イエスは神の国における食卓を望みながら聖餐を行いました。聖餐に連なる者たちには神の国の食卓が約束されているのです。どれほど深い罪を犯しても、悔い改めの涙を流し、この席に着くならば「あなたの罪は赦されている」と、イエスは言われます。地上の聖餐にあずかる者には、天の父の家での食卓も用意されているのです。