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第186回 裏切りの可能性

聖書=マタイ福音書26章17-22節

除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。

 

 イエスの十字架への歩みが最後の部分にさしかかっています。「最後の晩餐」と言われている食事の出来事です。しかし、最後の晩餐はもう少し後のことです。ここに記されているのは「過越の食事」です。「除酵祭」とは「過越」と同じで、過越祭の第1日目に家の中からすべて「酵母を取り除き」ます。これが「除酵祭」で、この後の出来事を暗示する言葉です。過越のパンは「酵母を入れないパン」です。「酵母」は腐敗を意味しました。過越期間中は「酵母を入れないパン」を食べます。過越祭については、出エジプト記12章に記されています。

 この過越の食事は、イエス自身が周到に準備したものと言っていいでしょう。弟子たちが「どこに、過越の食事をなさる用意をしましょうか」と尋ねます。旅の途中です。すると、イエスは「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています』」と言え、と命じたのです。「あの人」に用意をさせていた。弟子たちは、イエスに命じられたとおりにしたに過ぎません。

 マタイ福音書26章には、この過越の食事を前にして対照的な事柄が記されています。1つは高価なナルドの香油を捧げた女性の物語です。イエスの死と葬りの備えとして捧げ物をした人と、2つはイエスを祭司長たちに引き渡す手引きをして金を貰う人とのコントラストです。「除酵祭の第1日に」と記すのは、この後の展開を考えてのことです。

 イエスは12人弟子と一緒に過越の食卓に着きました。一同が食事を始めます。その中で、イエスは言います。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と。イエスの身近な弟子たちの中に腐敗が入り込んでいた。「裏切り」と訳された言葉は「引き渡す」と訳される言葉です。内心の想いだけでなく引き渡しという具体的な行為を含む言葉です。この時、すでに「ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」のです。

 この言葉は、弟子たち全体への重大な警告です。「はっきり言っておく」とは、イエスが大切なことを語る時の言葉です。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言い、そのことをさらに強調するために「わたしと一緒に手で食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」と言います。語られた状況は、弟子のだれも彼も、鉢の中に「食べ物を浸して」パンを食べ始めています。12人のすべてが含まれていると言っていいでしょう。

 使徒の中の一人がイエスを裏切ることの重大性を示しているのです。最後の晩餐を含む過越の食事が、このような裏切りの予告で始まるのを読んでぞっとします。それは食事の席に連なっていた12人の弟子たちも同じ思いだったのではないでしょうか。ですから、弟子たちは一人ひとり心配になって聞き返します。「主よ、まさかわたしのことでは(ないでしょうね)」と、代わる代わる問い合うのです。

 12人が互いに問い合う有様が示していることは、「決してわたしではありません」と言い切れない罪の弱さを全員が持ち合わせていたということです。わたしたちは皆、イエスを裏切るかもしれない弱さの罪を持っています。今日の弟子であるわたしたちも自覚しなければなりません。いつ、なにかの事情で、裏切らないとは言えない弱さを、わたしたちも持つのです。腐敗の種は、他の弟子たちの中にもあったのです。この弟子たちの姿は、今日のわたしたちの姿を表しています。イスカリオテのユダは、ある意味で12人を代表していると言っていいでしょう。ですから、一人ひとり心配そうに聞いたのです。

 この後のことになりますが、33節でペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と大見栄を切ります。ところが、その数時間後には「そんな人は知らない」と、3度も言ってしまった。ユダが裏切っただけではありません。使徒団の代表とされるペトロもまたイエスを裏切ったのです。わたしたちの決心など当てにはなりません。

 しかし、イエスは最後の瞬間まで悔い改めを待っておられます。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」という言葉は、呪いの言葉ではなく、悔い改めを促す言葉、警告の言葉なのです。イエスはユダに対しても最後まで悔い改めを求めておられるのです。イエスが、悔い改めを促しているのは、ユダに対してだけではありません。弟子たちのすべてに対して、それぞれが抱える弱さと罪深さと不信仰とを悔い改めるて立ち帰ることを求めておられるのです。