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第176回 戦争の騒ぎやうわさ

聖書=マタイ福音書24章3-6節

イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。

 

 世界中はロシア・ウクライナ戦争で浮き足立っています。日本も例外ではなく、連日、テレビ、新聞で大きく報道されています。ウクライナの戦争惨禍がリアルタイムで生々しい映像を伴って報道されています。すると早速、保守系の政治家たちはこれを好機として軍備の拡大、軍事費の増額、さらには核兵器の保持までも言い出しています。それを受けて、一般国民も同調して軍備の増強にOKを出しています。正気を失っているとしか言いようがありません。

 何を考えているのでしょうか。ロシア・ウクライナ戦争で見なければならないのは、戦争による民衆の悲惨なのです。戦争で最も多くの被害を直接的に受けるのは一般の民衆です。今回のロシア・ウクライナ戦争もロシアのプーチン大統領が引き起こしたように、戦争は権力者たち、国家為政者と呼ばれる政治家や軍人たちが引き起こしますが、実際に戦争に従軍し死傷し、大きな被害を受けるのは「一般民衆」、国民なのです。

 イエスは、エルサレム神殿崩壊の日が遠くないことを見抜いて予告しました。ユダヤの人々は神殿が崩壊する時とは、戦い、戦争によることを知っていました。かつてバビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされ、神殿は破壊され、多くのユダヤ人はバビロンに捕囚として捕らえ移されました。この亡国の出来事を思い出したのです。

 イエスの弟子たちも、神殿の崩壊とキリストの来臨、終末の問題とを結び付けて、イエスに尋ねています。弟子たちの質問は、1つは「そのことは、いつ起こるのですか」という神殿の破壊に直接に結び付いての質問です。2つは、このような壮大な神殿が破壊されるような時こそ世の終わりであろうと考え、「世の終わる時には、どんな徴があるのですか」という質問です。

 イエスは、弟子たちのこれらの質問を足場にして、終末に係わる事柄をしばらく語っています。今回は、その一部分です。先ず注意することは、イエスはまもなく起こるエルサレム神殿の破壊に示される神の裁きと、将来的な終末とを注意深く区別していることです。わたしたちは、何か大きなことが起こると、何もかも一緒くたにしてしまいがちです。しかし、大事なことは冷静になることです。冷静になって事柄を理性的に分別することです。

 イエスは、弟子たちの最初の質問の中心点である神殿の崩壊について答えています。しかし、慎重に「いつ」ということには全く触れません。イエスが語るのは、その危機に際して起こる前兆、徴(しるし)です。1つは偽キリストが現れること。2つは戦争の騒ぎと戦争のうわさ。3つは飢饉。4つは地震です。

 危機の時代は不安の時代でもあります。人々の生活が行き詰まり、先の見通しが見えなくなると人々の気持ちが不安定になります。このような時に「偽キリスト」、偽りの宗教が現れます。今日の日本でも、いろいろな新興宗教や宗教まがいのものが人々の注目を浴びるようになります。人の心に寄り添う形をして、その人たちを絶望の淵に追いやるのです。そして、その人たちの言葉によって、さらに多くの人の気持ちが不安にさらされます。

 「戦争の騒ぎとうわさ」です。「うわさ」の段階ですが、人々の心は不安になっています。ユダヤは地勢上弱小国です。北方にはアッシリアやバビロンなどの巨大帝国があり、南にはエジプトという巨大帝国に挟まれています。今はローマ帝国の版図に組み込まれています。しかし、ユダヤはそれに抗います。ローマの桎梏から逃れたい。そのため、ローマに隠れて武力、軍事力を蓄えていきます。これが「戦争の騒ぎとうわさ」の実体です。そして、蓄えられた軍事力が暴発してエルサレム崩壊へと行くのです。

 ロシア・ウクライナ戦争が起こり、日本でも「戦争の騒ぎと戦争のうわさ」が絶えない状況になっています。ヨーロッパで起こっていることが日本近辺でも起こるとされ、軍備増強が叫ばれています。感情的になり、憎悪が増し、軍拡競争が生じています。経済的な危機が起こり、人々の生活が圧迫され、食に事欠く人たちが出てきます。自然界の暴風や地震があれば、人々の生活がかき乱され不安が増大します。

 イエスは注意しています。「人に惑わされないように気をつけなさい。…慌てないように気をつけなさい」と。「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終りではない」と言います。ユダヤ人にとって、目の前の荘厳なエルサレム神殿が破壊される事態が起これば、世の終りと感じるでしょう。しかし、産みの苦しみの初めなのだと、イエスは語るのです。目の前の出来事に一喜一憂するのでなく、冷静に理性的に判断することです。