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第173回 神は生きている者の神

聖書=マタイ福音書22章23-32節

その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

 

 キリスト教信仰にとり、復活は十字架と共に信仰の基本です。ここではサドカイ派だけが登場します。サドカイ派は、祭司や富裕階級の人が多く、現実的・世俗主義的な政治グループと言ってよい。超自然的なものを認めません。天使や復活などは信じない。ファリサイ派の人たちが、イエスにやり込められて帰ってきた。今度は我々の出番だと乗り出したのです。

 サドカイ派の人たちは質問します。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」。律法の中に明記されています。家系を重んじるユダヤ人のため、子なしに死んだ人の家を絶やさぬため、その人の近親の順に未亡人と結婚して生まれた最初の子を死んだ人の跡継ぎとし家名を残す規定です。

 サドカイ派がこの規定を持ち出したのは、モーセを重んじたからではなく律法の欠陥と復活信仰の愚かさを論証して、イエスや民衆の非合理性を愚弄する狙いです。議論はこうです。長男が子なしに妻を残して死んだ。そこで次男から始まり、6人の弟が順次その妻と結婚したが、どの兄弟も子を産ませることなく死んだ。もし、復活があるなら、この婦人はだれの妻となるのか、という議論です。

 イエスは、これに対して反論します。先ず「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言い、次に彼らの復活理解の誤りを指摘します。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言います。サドカイ派は復活をこの世の延長線で考えます。それに対して、イエスは天国は地上の生とは全く違うと言います。天国では結婚も出産も病気も老いも死もない。これらは地上の事柄なのです。神がこの地を造られたとき、人をこのような枠組みの中に造られたのです。ある家庭の中に生まれ、人として成長し、学び、愛し、あるいは憎み、悲しみ、喜び、また家庭を造り、子を生み、育て、病み、死んでいく。この枠組みの中で、人は信仰をもって神を仰ぎ、神に仕えて生活するのです。

 家族の枠組みや関係は大切なものですが、また繁雑なものです。愛すると同時に憎しみも増すのが家族です。心身共に家族の問題で疲れ果て、重荷となり、傷つきます。天国では、この関係が全く清められるのです。人は、直接キリストと結ばれ、永遠の祝福の中に生きるのです。肉の命の誕生がありませんから性的な結合もありません。病いも死もありません。天使のように新しい天の体に変えられ神に仕えるのです。

 イエスは言います。「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と。この引用文は出エジプト記3章6節です。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という文言が、どうして死人の復活の証言と言えるのでしょう。ファリサイ派もこの聖句から復活論証したことはなかったと言われ、イエスに始まった復活論証と言ってよいでしょう。

 「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と過去形でなく、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で記されています。イエスはこれを指摘するのです。日本語「である」と訳された語はヘブライ語「ハーヤー」で「存在している。存在し続ける」という言葉です。神は、アブラハムを選び交わりに入れて下さった。それによって、神は、一時、アブラハムの神となっただけでなく、アブラハムの神であり続ける。永遠の神との交わりに入れられたアブラハムも永遠に生き存在し続ける、という論証です。

 肉体としてのアブラハムは死んでいます。しかし、神の前では彼は生きているのです。復活は、終わりの時に体がよみがえるだけのことでなく、本質はキリストにある永遠の命が与えられることです。この永遠の命に新しい体が備えられるのです。永遠の命こそ復活の本質です。生ける神がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神となって下さいました。それは地上における一時のことでなく、神の永遠の中に彼らを包み込んで下さったのです。彼らは過去の人ではなく、神の懐の中で生きて神と交わりを続けているのです。

 アブラハム、イサク、ヤコブの名のところに、皆さまの名前を入れて読んで下さい。神は、わたしの神となって下さいました。この地上で生きる時も、肉体の命が失われる時も、神はわたしの神であり続けて下さいます。肉体が失せても、わたしは神の前から失われません。神が永遠に生ける神である。その交わりの中に入る者を永遠に生かすのです。イエスは「あなたがたは聖書も神の力も知らない」と言います。永遠に生ける神を知り、この神との交わりに入る者を永遠に生かす力のある神を知って信じること、これが聖書を正しく読むことなのです。