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第168回 神の権威

聖書=マタイ福音書21章23-27節

イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 

 この箇所は、宮清めがなされた翌日の出来事です。ユダヤ教の神殿当局者との論争の最初です。イエスは神殿に入ると多くの人に教えられました。その場に「祭司長や民の長老たちが近寄って来た」と記されます。この人たちは個人的訪問ではなく神殿当局として来たのです。神殿を管理する最高機関はサンヘドリンと呼ばれていた70人議会でした。この人たちはサンヘドリン議会から派遣されて来た公的な詰問使でした。

 「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」という問いは、神殿当局としての公的な詰問です。「このようなこと」とは、神殿の庭で鳩を売っていた商人や両替人を追い出したこと、神殿の中で教えていることを指しています。イエスは神殿の中でこれらのことを当局者の許可なしに行ったため弁明を要求してきたわけです。神殿の庭で鳩を売り、両替することは当局が許可を与えています。ユダヤ教の教師ラビであれば神殿での説教は許されています。しかし、イエスは正式のラビではない。そこで、「何の権威によって…、だれが権威を授けたのか」と問責してきたのです。

 イエスはこの質問に答えずに、洗礼者ヨハネについて問い返します。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」と。すると神殿当局者たちはジレンマに陥ったのです。洗礼者ヨハネの洗礼はユダヤ教当局から許可を得たものではない。しかし、阻止したわけでなく黙認し放置していた。けれど、ユダヤ教を管理するものとして答える義務があります。少し考えると大変なことが分かります。民衆は洗礼者ヨハネは神の人であると受け止めていました。神からではないと語ると民衆の支持を失います。そこで「分からない」と言うより他なかったのです。そのため、イエスも「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と応えたのです。

 ここから学ぶことは、人間的な権威によらない権威があることです。日本人は権威にたいへん弱い。上役の権威、社長の権威、首相や天皇の権威などいろいろあり、その権威に弱いのです。「鶴の一声」、「天の声」で決められてしまう。人間社会ですから、人間的権威が生まれてきます。けれど、どんな人間的な権威にも依存しない権威があることです。それが神の権威です。

 イエスが宮清めを行ったのも、神殿の庭で教えたことも、誰かに許可をもらったわけでなく、神の権威によるのです。洗礼者ヨハネの洗礼活動も神の声に従った働きでした。ヨハネが「悔い改めよ」と叫んだのは、人間の組織や国家の権威によって承認されたものではありません。彼の叫びが王の承認によるのであれば殺されることはなかったでしょう。「悔い改めよ」という叫びは、神が叫ばせたのです。

 イエスの場合も同じです。イエスはユダヤ教の律法の教師ではありません。誰かの許可を得て教えたのではありません。父なる神から遣わされた者として神の言葉を語ったのです。神から遣わされた救い主として旧約の終わりを告げたのが宮清めでした。これらの行為は、どんな人間的な権威にもよらない神の権威に基づくものでした。

 神が、「語れ」と命じる時には、恐れることなく語ることです。神の言葉を語ることは、国の権力者の承認によるのでなく、神の促し、神の命によるのです。「天路歴程」を書いたジョン・バンヤンは英国の貧しい鑄掛屋の子として生まれました。オックスフォードやケンブリッジを卒業したわけでもありません。どんな大学にも行きませんでしたが、聖書の言葉と文章、その文学とを身に付けました。その彼に、神は福音を語ることを命じたのです。町の辻で、家庭の集会で、福音を語り始めると、英国国教会は彼を捕らえ12年にわたって投獄しました。その獄中で「天路歴程」などの作品が生み出されたのです。

 福音を語ることは、国の許可によるのでも教会の決議によるのでもありません。神が促しているから語るのです。教会を軽んじることではありません。教会によって正規に任職されても、神の促しがないなら語る力は出てきません。教会は、福音を語ることを神から促されている人を見出して正規に任職して秩序づけるだけなのです。神が命じ、促しておられるから伝道するのです。「獅子がほえる/誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる/誰が預言せずにいられようか」(アモス書3:8)。神の促しを受け止めて伝道の働きをして参りましょう。