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第163回 何をしてほしいのか

聖書=マタイ福音書20章29-34節

一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。

 

 信仰生活は祈りの生活と言っていいでしょう。祈りは願い求めることです。もちろん、求めることだけが祈りではありません。感謝も、賛美も、み言葉を思い巡らすことも祈りです。けれど、祈りは何と言っても願い求めることが多いでしょう。自分自身のため、家族のため、あの人この人のために祈り求めます。祈りこそ、わたしたちの特権であり力です。

 イエスの一行がエリコの町を離れようとしていました。その道端に2人の盲人が座って物乞いをしていました。彼らは以前からここに座って人々の話を聞いていました。目が見えないだけに、人の言葉の真実がよく伝わるようです。彼らはイエスへの信仰を持っていました。「信仰は聞くことから来る」と言われます。彼らは盲人で人々の仲間にいれて貰えません。道端に座り続ける中で、通り過ぎていく人たちの話を聞き信仰が起こされたのです。聞く条件が整っていない中でも聞いて信じる人が起こされるのです。大事なことは聞く耳を持つことです。

 彼らは、「主よ、ダビデの子よ」と叫びます。ナザレのイエスを「主」と呼んだ。それだけでなく「ダビデの子よ」と言います。旧約聖書が語るメシア・キリストを示す称号です。彼らは目が見えません。しかし、それはナザレのイエスを救い主と信じる信仰を持つことに何の障害にもなりませんでした。2人の盲人にはイエスに対する信頼としての信仰があったのです。

 彼らは叫び続けます。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と。信頼するとは、具体的に祈り続け、叫び続けることです。イエスが自分たちを助けて下さる、その力があると知っても、信頼がないならば多くの人の制止にもかかわらず叫び続けることは出来ません。

 「群衆は叱りつけて黙らせようとした」と記されています。「群衆」の中には、イエスの弟子たちも含まれています。イエスを慕ってきた人もいます。すべて悪意の人だけではなかったでしょう。わたしたちが、信仰を求めて進もうとすると、必ず制止したり引き離そうとする人たちが現れます。多くの場合、悪意からよりも善意からです。「あなたはまだ若いから」、「そんなに熱くならなくても」、「今は大事な勉強や仕事があるから」と忠告してくれます。

 ここで注目しなければならないことは、イエスも彼らの叫びを直ぐに聞こうとしなかったことです。彼らの必死の叫びが耳に届かないのではないでしょう。しかし、イエスは聞こえないかのように通り過ぎようとします。なぜでしょう。さえぎる者が出て、祈りが聞かれないように思える時こそ、祈りが試されている時なのです。わたしたちの信仰と信頼が試されているのです。「あなたは、本当にわたしにそれができると信じているか」「あなたにとって、わたしだけが救い主なのか」と、無言のうちに問われているのです。

 大事なことは、祈りの内容が本当に必要なものかということです。2人の盲人の場合、物乞いで生活していましたから、イエスに金品を求めることもできました。生活のため金銭を求めることは当然のことでした。「群衆」は、2人の求めをそのように考えていたでしょう。しかし、イエスにしか求めることの出来ないものがあります。彼らはそれを知ったのです。イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねたとき、彼らは直ぐ「目を開けていただきたいのです」と応えます。イエスは、本当に必要なものを求める祈りを待っていたのです。祈りは、こうして試されます。祈りの中には、取り引きのような祈りも、手前勝手な祈りもあります。それは、それでよいのです。ただ、その祈りが試されます。金や銀が溶鉱炉の火で精錬され、まじりけのないものになるように、わたしたちの祈りも試され、問われて、本物の祈りになっていくのです。

 「二人はますます、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』」と叫びます。これが大切です。ちょっと妨害がある、なかなか祈りが聞かれない。すると直ぐにあきらめてしまうか、腹を立てて祈りを止めてしまうのではないでしょうか。求め続けることをしません。

 「イエスは立ち止まり」と記されます。このような祈りを待っていたのです。彼らの激しい祈り求めは、イエスの足を止めさせました。足を止めて「何をしてほしいのか」と尋ねてくださいます。そこに解決があるのです。イエスが足を止めて向き直って下さったら、すべては解決するのです。わたしたち、イエスが足を止めるような真剣な祈りをしているでしょうか。形だけの祈りではないでしょうか。イエスが足を止めるような真剣な祈りを捧げましょう。