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第158回 毒麦のたとえ

聖書=マタイ福音書13章24-30節

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 

 マタイ福音書の中に「毒麦のたとえ」と言われる記述があります。イエスが、種蒔きなど農業との関わりで語られた中に出てくる「例え話」です。これからのキリストの弟子たち、信徒の集まりの中に多くの問題を抱える人たちが出てきます。どこにも「クレーマー」のような人たちはいます。群れを崩壊させるような主張や活動をするような人たちも出てきます。イエスは、そのようなケースを予見して語られたのです。

 農夫が「良い種」を畑に蒔きました。ところが芽が出て成長すると、「毒麦」も現れたのです。良い種だけを蒔いたはずですが、小麦だけではなく、いろいろなものが生え出てきます。これが実際です。「どこから毒麦が入ったのか」と問う僕に対して、イエスは「敵の仕業だ」と言います。「敵」とは悪魔のことです。神と神の僕が一生懸命に福音を語り、教会形成のために働き奉仕する傍らで、悪魔もまたしっかり働いているのです。世にある教会の中では、悪魔も働いていることを理解しておかねばならないのです。

 そこで、僕は「では、行って抜き集めてきましょうか」と聞きます。これは農業従事者として当然の思いと言って良いでしょう。小麦の種を蒔いて、小麦が生長し、小麦を収穫することを期待しているのですから、除草するのは当然のことです。ユダヤだけでなく日本でも、麦であれ、米であれ、野菜であれ、田畑で除草は「して当然」の作業です。

 ところが、イエスは、主人の言葉として「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われたのです。「除草」をストップさせたのです。これは普通では考えられない、異常とも言えることです。なぜでしょうか。実は、この例えでは、イエスは農作業のことを語っているのではないのです。神の教会の基本的な在り方を農作業にこと寄せて語っているのです。なぜ、ストップさせたのでしょうか。

 第1は、誤りを犯さないためです。「麦まで一緒に抜くかもしれない」と言われました。わたしも幾分農業に従事したことがあります。雑草を抜き、除草する時、多くの場合、弱い麦も抜いてしまうのです。小麦と毒麦とは似ています。どれほど注意していても失敗は起こります。この「誤り」はあってはならないことで、「しまった」では済みません。イエスは、弱さを持つ一本の麦でも誤って抜かれ、捨てられることを喜ばないのです。「弱さを持つ1つ」が大切です。1つに対する主なる神の愛が、ここに示されているのです。

 第2は、ここで例えられている「良い麦」も「毒麦」も人間であることを忘れてはなりません。今は毒麦であっても、良い麦に変わる可能性があるのです。人の判断は将来まで的確に見通すことは出来ません。今は問題を抱えて人に迷惑を及ぼし、教会を誤った方向に進ませようとしているでしょう。しかし、将来にわたって、悔い改めないとだれも保証できません。神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことの出来るお方、不可能を可能にするお方なのです。

 第3は、神の忍耐の表明です。神は、天地の創造主、また摂理の神です。良い者にも悪い者にも雨を降らせ、太陽の光を注がれます。キリストによって罪人を贖い、滅びの中から救い出してくださる神は忍耐して待つお方です。キリストによる救いは、神の忍耐の恵みの上に成り立っているのです。罪を犯したアダムとエバを直ちに処断するのではなく、長い忍耐の歴史の末に、イエス・キリストの十字架によって贖いを成就してくださった神なのです。この神の忍耐が、ここに示されているのです。

 教会と牧師にも、この忍耐が求められているのです。キリスト教会の中でも、悪魔が力を振るい、毒麦が蔓延って、良い麦を圧倒し、その生長を阻害するように見える時もあります。それでもなお、神の支配は続いているのです。このことが判るのは、イエスの十字架を見上げる時です。悪魔的な力が圧倒的に勝利を収めたかに見える時が、イエスを十字架につけた時です。悪魔が勝利したかに見えました。ところが、その十字架において神とキリストが勝利されたのです。人類の罪の支払いを済ませ、死に対して勝利し、復活しました。

 圧倒的な悪魔の力に対して、神は終わりに勝利されるお方です。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にしなさい」と命じます。終わりの審判があることを確信して、失望することなく、信仰と希望を持って種蒔きを続けてまいりましょう。