· 

第156回 悔い改めの物語

聖書=ルカ福音書15章11-16節(24節まで)

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」

 

 ルカ福音書15章の3番目の例え話は、失われた兄弟の物語です。ここでは前半部の弟息子の物語を取り扱います。上記の聖書個所は11-16節ですが、聖書をお持ちの方は24節までお読みください。イエスは「ある人に息子が二人いた」と語り出します。弟息子から遺産分配の申し出があった。遺産分配は親が死んでからのことで、ユダヤ社会でも同じです。ところが、弟は強引にせがみ、父親も根負けして財産分割をしてやりました。

 弟は、すぐに金に換えて遠い国に旅立って行きました。才能もあったでしょう。農業するしか能のない父や兄を馬鹿にしていた。田舎で埋もれるのは嫌だ。青年期特有の野心もあった。都会で才能を開花させて豊かで華やかな生活を夢見て家を出て行きました。都会に出て行った弟は、厳しい現実に直面します。「そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」。快楽の誘惑に負けてしまったのです。自分でも気がつかなかった欲望があり、それを抑えることが出来なかった。禁断の木の実に手を伸ばしたアダムとエバの罪と本質的に同じものでした。

 直面したのは生活の糧を得ることの困難です。「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた」。飢饉は周期的にやってきますが、お金が有ったら何とか乗り越えられます。無一文になった時、お金を貸す人などいない。孤独を味わい、人間の冷酷さを知りました。ユダヤ人は豚を汚れた動物として食べない、飼うこともない。背に腹は代えられず彼は豚飼いになり自尊心も失った。落ちるところまで落ちてしまった。世間は冷たく「食べ物をくれる人はだれもいなかった」。エゴイズムが支配する世の中に一人突き放されたのです。この弟息子の姿こそ、神から離れ見失われた人間の姿です。

 この悲惨のどん底で、弟息子は自分を取り戻したのです。悲惨のどん底に立つことは、つらいことですが人間にとって大切な時です。順調な時には、生きる意味など考えません。しかし、悲惨のどん底で、人は自分を見詰め、自分の本当の姿に気づくのです。つらい時こそ最も大切な時なのです。「我に返った」とは、自分の惨めな姿を悟り、頼るもの、支えるものが自分の中にないことを悟ったのです。その中で、彼は父を思い出します。

 「そうだ、自分には父がいた」と。父から離れていた。これが罪の認知で悔い改めの第1歩です。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。…と』」。「ここをたち」という言葉に強い決意が込められています。新しい一歩を踏み出した。悔い改めが始まっているのです。

 他方、弟息子を迎える父親の姿が生き生きと描かれています。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。村境にみすぼらしい乞食のような男が姿を現した。行き交う人も、これがあの弟息子だとは気付かない。ただ父親だけが見つけた。家を出て行った時から、いつか必ず帰ってくると、毎日、待っていた。遠くにいるみすぼらしい男の姿の中に、我が子の姿を認めたのです。「憐れに思い」とは、はらわたが突き動かされるような熱い思いです。「我が子だ」と、父は走り出します。首を掻き抱いて接吻する。息子が許しを乞う前に、父の方から息子を抱いているのです。

 父に抱かれる中で、息子は悔い改めの言葉を語り出します。もう父は赦している。赦しの中で罪の告白が出来るのです。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と。「雇い人の一人に…」は言い忘れた。でも父は言わせないで、しもべに言いつけます。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。…」。ボロボロの服に代えて父の愛と恵みで包まれたのです。「死んでしまったと思っていた。本当によかった」。父親は何度もそう言って息子を抱きしめました。

 これが罪人を迎える神の姿だと、イエスは言われたのです。弟息子を悔い改めさせたのは父なのです。彼は父の家に帰る時、赦されるかどうか心配しながら帰ったでしょうか。そうではない。帰ったら赦してもらえる。そう確信していた。生まれた時から、心の中に父のイメージが焼き付けられていたからです。父の元には赦しがある。そう確信したから勇気をもって立ち帰ったのです。弟息子の姿を認めて走り寄る父の中に、罪人の悔い改めがあるのです。弟息子を悔い改めさせたのは父の働きでした。イエスは、ここに神の愛がある、と語られたのです。