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第153回 神の武具を身に着けなさい

聖書=エフェソ書6章10-15節

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

 

 本日は2022年2月11日です。「建国記念日」の休日です。しかし、キリスト教会では特別に祝日とせず「信教の自由」を訴える日としています。現在、日本の国の行方、将来がたいへん心配な時になっています。共謀罪が出来、安保法制が国会で可決され、戦争が出来る国造りが始まっています。軍備に力を入れ、敵基地への先制攻撃が内閣で検討されています。国会では憲法の改悪が検討されようとしています。戦後75年、平和を享受してきた日本が、再び戦争の備えをし、戦争へとのめり込んでいく兆しが見えてきています。

 このような状況を踏まえて、今回は新約聖書「エフェソの信徒への手紙」の終わり部分からお話しします。この手紙は、使徒パウロによって紀元1世紀後半に記されたものです。キリスト教が広いローマ世界に急激に拡大すると共に、しだいにローマ帝国との衝突、迫害が間近に感じられる時代に執筆された書簡です。信徒に霊的な戦いへの覚悟を記しています。

 日本の現況は、まさにパウロの語る「悪魔の策略」の元にあると見ていいでしょう。表面的な政治状況の背後に、悪霊の働きを見抜かねばなりません。神道的国家観を回復しようとする勢力、国家権力と結託する新興宗教の勢力、優越的な自民族中心主義的な言論思潮、それらの背後にあるのは目に見えない悪霊の活動なのです。わたしたちは、悪霊との霊的な戦いに召されています。信仰的な戦い、思想的な戦いです。

 これから起こり来る「邪悪な日によく抵抗」しなければなりません。「邪悪の日」とは、激しい試練と迫害などの時期を意味しています。個人の自由と尊厳が失われ、信教の自由が奪われ、学問の自由が奪われ、集会、結社、言論、出版の自由が奪われていく日々のことです。かつての昭和前半の「大日本帝国」の姿、さらには今日の「香港」の姿を思い起こしてください。

 パウロは、この邪悪の日、試練と迫害の日の到来に備えして、「よく抵抗する」ために「神の武具を身に着けなさい」と繰り返し命じています。この「武具」は、決して「いわゆる物理的な武器、火器」などではありません。間違えてはなりません。「神の与えてくれる霊的、信仰的な武具」のことです。「真理の腰帯」、「正義の胸当て」、「信仰の盾」、「救いの兜」、「霊の剣」と言われます。時代や社会の風潮に流されることなく、信仰の知識を持ち、信仰者として生き抜くことです。それが時代に抗う生き方であり、「悪魔の策略」と戦う姿なのです。

 「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と命じられます。「神の言葉を取る」とは、福音を伝えることです。福音を伝える伝道について、多くのキリスト者に誤解があります。福音の伝道は、社会や政治のことに関わらないという誤解です。戦前の日本の教会は、社会状況から目を覆い、自己保身に徹して歩んだのです。しかし、福音を伝えることは、一般社会や政治の罪をも、罪を罪として正しく指摘し、神の義を鮮明に語ることです。神の言葉を語ることは、時代の流れに抗うことです。「否を否として語ること」が福音宣教の大切な使命なのです。

 悪魔の策略と戦う本筋は、「平和の福音を告げること」です。悪魔も、実は「平和」を語るのです。戦争を始める人たちも「平和」を語ります。「これは平和のための戦いだ」と、「東洋永遠の平和」を謳って大東亜戦争を始めた事実を忘れてはなりません。この種の平和の主張は「相手を押さえつけて、自己の主張を徹底的に押し広げることによってもたらされる平和」です。過去の日本が物語っていた「八紘一宇」もそうです。今日の中国の「中華の主張…一帯一路」、アメリカの民主主義の強制輸出なども、そうでしょう。これらは決して平和の道ではありません。行き着く先は「ホロコースト」(大虐殺)への道です。

 まことの「平和」は自己と異なる相手を受け入れることです。パウロは、同じエフェソ書2章14-16節で、こう記します。「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。

 古代においてユダヤ人と異邦人というまったく相容れない二つの存在を、「1つにする」ために、イエスは十字架においてご自身の身を犠牲として捧げ、両者の「敵意」を滅ぼしたのです。それにより、両者の「隔ての壁を取り壊し」、「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現」されたのです。このイエスの自己犠牲である十字架による平和を、ある程度ですが見える形で実現しようとしているのが、民族、国籍、性別、階層を超えて全世界に存在している「キリスト教会」の在り方です。しかし、まだまだ未完成品です。「御国を来たらせたまえ」と祈りましょう。