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第150回 悲惨な事件をどう理解するか

聖書=ルカ福音書13章1-5節

ちょうどそのとき、人々が何人かやって来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した。イエスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

 

 わたしたちは、ショッキングなニュースに取り巻かれています。毎日のように惨殺事件が起こったと報道されています。先日は、大坂の心療内科で院長先生を含めて26名の焼死というショッキングな事件が報道されました。容疑者とされている人が死亡してしまったため、詳細は分からないことになるでしょう。このような悲惨な事件や事故に直面すると、多くの人はこれをどう理解していいのか、思い悩むことになります。こんなことがあっていいものか。何故だ、という叫びが飛び出してきます。家族を失った人たちの悲痛な叫びには、どうお応えしていいのか分かりませんでした。言葉を失うと言っていいでしょう。

 イエスの時代は、大きなニュースが次々に飛び込むような時代ではありません。それでも人々を驚かせるような事件は起こります。イエスが群衆に話していた時です。人々が驚きをもってイエスの元に来て「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」のです。

 これには少々解説が必要です。総督ピラトがエルサレムの町の人たちに役立つことだからということで、水道の工事費用に神殿のお金を流用しました。神殿のお金は聖なるお金です。それを水道工事という世俗事業のために用いることに強硬に反対する人たちがいました。その反対運動をピラトが弾圧し、兵士を送って神殿に逃れた人たちを祭壇の傍らで殺害してしまった。その際、殺された人たちの血が祭壇に飛び散り混ざるということが起こったのです。

 祭壇は罪に対する神の怒りの火が燃やされる場です。人の罪を羊や子牛に転嫁し、罪を担った動物が祭壇で犠牲とされます。その結果、犠牲を捧げた人は赦しを受けます。ローマの兵士たちは、神殿だから、祭壇の近くだから、と言って遠慮も何もありません。反抗する人たちを殺し、その血が祭壇にも飛び散りました。そこで、ユダヤ人はこのガリラヤ人たちがこんな災難に遭ったのは罪深い者だったから、こんな悲惨なことになったのだと噂しあい、イエスの元に来てこの事件を知らせ、どうに考えたらいいのかと尋ねたのです。

 人々が噂していたもう1つの事件がありました。シロアムの塔とは、エルサレムのシロアムの池の傍らに建てられていた揚水塔でした。その高い塔が崩壊し、近くにいた18人が巻き添えになって死ぬという事故が起こりました。この時も人々はこんな事故に巻き込まれて死ぬなんて、彼らはよほど罪深い人たちであったんだろうと噂し合いました。

 皆さまは、このような出来事をどう受け止めますか。悲惨な事件や事故が起こると、人は原因や理由を問おうとします。何故だ、と。別の言い方で言うと「因果を問う」ことです。何故、地震や津波が起こったのか。何故、多くの人の命が奪われたのか。何故、という問いには、なかなか答えることが出来ません。

 ユダヤの人々は「彼らは罪深い者だったから」と考えました。旧約のヨブ記の中でエリパズという人がヨブに言います。「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ/正しい人が絶たれたことがあるかどうか」と(ヨブ記4:7)。あなたには隠れた罪があったから、こうなったのだ。因果応報なのだと。日本では前世の因果という言い方をします。

 しかし、イエスは「決してそうではない」と言われました。神は人に罰(バチ)を与えるようなお方ではありません。キリスト者であっても事故や事件で死ぬことはあります。不慮の死を遂げることもあります。どんな死に方をしたかによって救いがあるわけではありません。信仰によって救われるのです。このことをしっかりと押さえておかねばなりません。

 ヨブ記では、突然の出来事の不当さを問うヨブに対して、ずっと沈黙を続ける神が記されます。ヨブが何故、悲惨な目にあったのか、その答は与えられません。ヨブ記の神の答え同様に、主イエスもこのことについてはまったく答えません。因果を探っても不毛な結果に終わるだけです。不毛な議論をするのではない。イエスは「悔い改めなさい」と勧めるのです。たいへん不思議な言葉です。「悔い改め」と聞くと、何か悪いことをしたので反省を求められているのかと考えます。しかし、「悔い改め」は、反省とまったく違います。

 悔い改めは、神がいなければ成立しません。「神へと向きを変える」ことです。神に背を向けていたところから神に向き直って、神を見つめて、神に立ち帰るのです。苦難や悲惨についての真の回答は、人間の中にはありません。悲惨の中での慰めと救いは、その苦しみの原因を人の中にあれこれと探り求めることによってではなく、神と本当に向かい合うことによってこそ与えられるのです。理屈で納得するのではなく、神の恵みの支配を認めて、神と向き合うところで、本当の慰めが与えられるのではないでしょうか。