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第148回 一年の決意を

聖書=ルカ福音書1章74-75節(新改訳2017)

主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。

私たちのすべての日々において、 主の御前で、敬虔に、 正しく。

 

 新しい年、2022年が始まっています。昨年を含めて、この2年間、わたしたちは、新型コロナウィルスの感染禍によって、右往左往させられました。個人的にも、多くの人たちが悲しみを味わい、つらく痛みの伴う歩みを余儀なくされました。教会としても、この2年間は、通常の教会の営みを行うことが出来なかったのではないでしょうか。積極的に教会に人を導くことはほぼ出来ませんでした。

 しかし、昨年の終わり頃から、コロナ禍もようやく下火になりつつある状態です。新しいオミクロン株の流行による第6波の問題もありますが、そろそろ教会の活動を元に戻すことを考えるべき時になってきているのではないでしょうか。

 このような時に、新しい年の初めを迎えて、わたしたち、一人ひとり、主の御前に、この年の決意を新しくしてまいりたいと願っています。皆さまが、この1年の決意を考える時に、参考としていただけたらと願って選んだのが、上記の聖句です。この聖句は、新共同訳からではなく、「新改訳2017」から選びました。この個所の翻訳としては、わたしがいつも使っている新共同訳よりも、はっきり明確、適切な翻訳となっていると思っています。「新改訳2017」の翻訳を用いてお話しいたします。

 昨年2021年は、まことにあわただしいときでした。新しい年を迎えるこの時期は、お互いに過去の歩みを振り返って、点検してみる時だと思います。わたしたちの歩みを点検する時、ある基準が必要です。会社などでは損益計算という、儲かったか、儲からなかったかという計算をします。忙しく走り回ったけれども、損ばかりしていたというのではむなしいでしょう。

 しかし、わたしたちの人生の歩みを点検するのは、お金が儲かったかどうかではありません。経済的には損ばかりであったように思える時でも、豊かに祝福された恵みの年もあるのです。「人間の為し得る最大の事業は、神に仕えることである」という言葉があります。いろいろな仕事や出来事で忙しく過ごしてきたけれど、「神に仕える」という視点から、わたしたちの歩みを点検してみることも必要なのではないでしょうか。

 上記の聖書個所は、洗礼者ヨハネの誕生に先立って、父親のザカリヤが、我が子ヨハネの誕生とその使命について告知した、いわゆる「ザカリヤの預言」の中の文章です。ザカリヤは「主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる」と語ります。ザカリヤは、我が子ヨハネの誕生をもって、神はかつてアブラハムに誓った契約を実現してくださる出来事の胎動を直感したのです。「敵の手から救い出し」とは、決して軍事力などによる解放ではありません。「恐れなく主に仕える」ための霊的な解放、罪からの解放、贖いです。彼は、洗礼者ヨハネに導かれて到来するイエス・キリストによる恵みの出来事を見ているのです。

 ザカリヤの預言の時点では、イエス・キリストによる恵みの出来事は、まだまだ遠い遠い先のことでした。洗礼者ヨハネが生まれ、さらにマリアからイエス・キリストが誕生し、洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、ヨハネに紹介されて、イエスが活動を始まるのです。ザカリヤは恵みの出来事の胎動を聞いたに過ぎません。

 しかし、現在は、恵みの出来事のすべてが成就しています。主イエスは十字架でわたしたちの敵を滅ぼし、わたしたちを敵の手から救い出してくださいました。わたしたちは、今や、解放されているのです。もはや悪霊の支配下にいません。わたしたちの良心を縛るものはありません。自由に生きることが出来るのです。「恐れなく主に仕える」ことこそが、キリストを信じる者の特権です。この自由を決して手放してはなりません。神の御子がその血をもって贖い取ってくださった自由なのです。

 この霊的な解放、良心の自由が与えられることをバネにして、ザカリヤはわたしたちの生き方を指し示しているのです。それがルカ福音書1章75節です。「わたしたちのすべての日々において、主の御前で、敬虔に、正しく」。キリストは、十字架によってわたしたちの罪を赦して解放し、自由を与えてくださいました。新しく神に仕えて生きる者としてくださったのです。「主に仕える」とは、決して奴隷的なことではありません。神の御心に従って自由人として生きることです。「敬虔に」とは、心清らかにと言うだけのことではありません。信仰者としてふさわしい生き方です。「正しく」とは、神の御心に従って神の御前に正しいものと認められて生きることです。信仰者として与えられた恵みの数々に感謝し、良心の自由をもって平安と喜びのうちに、主に仕えることが求められているのです。

 わたしたち、この数年、新型コロナウィルスの感染禍の中で、生活が萎縮して過ごしてきたのではないでしょうか。神を信じて生きる伸び伸びとした生き方をしてきたでしょうか。個人的にも、教会としても、わたしたち、神の御心に従って、喜びをもって積極的に、主に仕えてきたかどうか、振り返って見ることも必要でしょう。そこから、新しい神への服従の取り組みが始まるのではないでしょうか。