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第146回 聞き方に注意しなさい

聖書=マタイ福音書13章3-9節

イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

 

 印象派の画家ミレーに「種蒔く人」という絵があります。恐らく、この聖書個所からインスピレーションを得たのではないでしょうか。今日の日本の種まきの状況と少し変わっています。日本では最初から土地を深く耕し、畝を作り、一粒ずつ種を丁寧に土に落とし、土をかぶせていきます。一粒の種も無駄になりません。

 イエス時代の農法は、ミレーの「種蒔く人」と同じです。種を蒔く人は、種を入れた大きな袋を腰につけて、広い農地に勢いよくバラ蒔いていきます。深耕などはしていません。勢い余って道端に落ちる場合もあります。広い農地の中には石ころだらけの土地もあります。茨の生えている土地もあります。種々雑多。しかし、かまわずに農夫は勢いよく腰に付けた袋から種をドンドン蒔いて、その後からすき込んでいくのです。結果として、ずいぶん無駄も生じます。

 主イエスは、伝道の例えとして、当時のこのような農法による種まきの姿を取り上げたのです。一粒の種も無駄にしない日本的な農法から比較したら「愚か」とも言えるでしょう。しかし、イエスは伝道の例えとしてこの当時の農法・種まきの姿を取り上げました。この例えを語られた後で解説をしていますが、種は「御国の言葉」、つまり神の言葉であると言われました。神の言葉の宣べ伝えの在り方を示しているということです。伝道は効率ではなく、大きな無駄もあるということを示してもいるのではないでしょうか。

 主イエスがこの例えで語られた第1の点は、神の言葉の宣べ伝えである伝道は、対象によらないということです。「道端」とは、人や車が通って踏み固められた場所で、心のかたくなな状態です。「石だらけの地」とは、岩石層の上に薄い土が乗っている状態で、根を張ることが出来ない状態です。「茨の地」とは、土地に栄養はありますが、同時に他の雑草も繁茂します。これらのいずれも、神の言葉の種まきがなされる土地なのです。種蒔く農夫は、これらの土地にもドンドンと種を蒔いていきます。

 この人には神のことを話しても無駄だ、この人の心の状態は荒れている、この人は信仰などとは無関係だ、この人は反キリスト教だ、この人はあまりにも世俗的だ、……このように考えて、福音を宣べ伝える者の側で、選択しない、伝道・宣教の対象を絞らないことです。宣べ伝える側では状況に斟酌することなく、広く、広範囲に、だれにでも、神の言葉を宣べ伝えられるのです。伝道とは、そのようなものです。

 そして、主イエスは、この例えで、神の言葉を聞く者の責任を語っているのです。「耳のある者は聞きなさい」と。この主イエスの種まきの例えは、神の言葉を聞く者の聞き方に大きな比重が置かれています。神の言葉、福音を語る側の責任についてはよく語られるのですが、聞く者の責任について問うことは、教会の中ではあまりしていません。しかし、この例えを語られた主イエスの主眼は、神の言葉を聞く者にも大きな責任があると語っているのです。

 この例えを語られた後、弟子たちに解説を語っています。旧約預言者イザヤの言葉を引用して「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった」と言われています。神の言葉を単なる音の響き、風の動きのように聞いて、それに応答しない。「馬耳東風」という言葉があります。耳を閉ざし、目を閉ざし、理解しようとせず、心を堅く閉ざしていると言う告発の言葉なのです。これは、神の民と言われていたイスラエルの人々への断罪の言葉です。

 それと同じことが、今日の日本の福音宣教の状況、福音の伝道においても起こっているのだと、主イエスは語りたいのです。「御国の言葉」も「ことば」なのです。「言葉」が語られる時には、応答が求められているのです。人の言葉であれ、神の言葉であれ、「ことば」が語られる時、正しく応答されることが求められているのです。

 ところが、多くの場合、正しく応答されないのです。心を固くして最初から受け付けません。虚しさだけの応答です。一時は応えても、長続きすることなく、やがて立ち消えていきます。この世の誘惑や富に目がくらみ、拒絶をもって応えます。このような悲しい応答は、決して今に始まったことではありません。イエスの在世中から、いや、旧約の時代からのことなのです。御言葉の種まきは、虚しさに耐えねばなりません。

 しかし、主イエスは言われます。「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」のです。御言葉の種まきは、決して望みなき働きではありません。神が「良い土地」を備えていてくださいます。わたしたちには、だれが、どの人が、実を結ぶ「良い土地」であるかは分かりません。道端や石地、茨の中に、良い土地は隠されているのです。道端や石地、茨の地が、良い土地に変わることがあります。虚しさに耐えて、希望を持って御言葉の種を蒔き続けていくのです。