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第145回 神の選んだ神の僕を見よ

聖書=マタイ福音書12章15-21節

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」

 

 まもなく今年、2021年のクリスマスとなります。この個所から、クリスマスの恵みについて記すこととします。日本では、クリスマスというと華やかにデコレーションされたクリスマスケーキを食べ、贈り物をし、豪華な食事を囲む時として考えられているのではないでしょうか。11月末頃になると、街中にクリスマスソングが聞かれます。日本中がクリスチャンになったかのような珍妙な光景です。クリスマスの本当の意味について考えようともしていません。

 皆さまは、アンデルセンの童話「マッチ売りの少女」をご存じでしょうか。年の瀬に貧しい少女が雪の降る路傍で素足でマッチを売っている光景です。売り切らねば家に入れてもらえません。街の人々は年の瀬で慌ただしく通り過ぎて行きます。家々の窓からは温かなストーブ、飾られたクリスマスツリー、ご馳走などが見えます。夜も更け、少しでも温まろうとしてマッチを擦ります。炎の中に少女を可愛がってくれた祖母の顔が見えました。次々にマッチを擦っていく中で、夢の中で祖母に会い、次の日の朝、少女はマッチの燃えかすを抱えて微笑みながら死んでいたという物語です。

 この物語は19世紀中頃、北欧デンマークの社会状況を描いていると言われますが、今日の日本の深刻な情景ではないでしょうか。貧しく見捨てられた人たち、職を失い、行き場を失った人たち、とりわけコロナ禍の中で、いのちの危機にある人たちが増大しています。主イエスは、このような貧しく弱い人たちのために、救い主として誕生されたのです。クリスマスは、この人たちのものなのです。

 神は、預言者イザヤを通して、この救い主について「見よ、わたしの選んだ僕」と言います。神の御心を実現するための神の僕(しもべ)とは、「このようなものだ」、「見よ」と言われているのです。「見よ」と言われている神の僕とは、どのような方なのでしょうか。

 この神の僕の働きは、第一に異邦人に深く関わります。「異邦人に正義を知らせ」、「異邦人は彼の名に望みをかける」と語られています。旧約時代は、異邦人は「無割礼の者」と言われて神の救済の外に置かれていました。それに対して、この救い主は異邦人に深く関わります。「正義」とは単純な正義ではありません。「神のさばき」と訳すべき「神の公平な取り扱い」のことです。神の公平な救いの恵みが異邦人に及び、異邦人も神の国の共同の相続人となり、異邦人の救いの望みがここにかけられます。

 この神の僕の働きは、第二に傷ついた弱者に深く関わります。「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と語られます。傷ついた弱者は、いつの時代でも疎外されています。しかし、これらの言葉によって、この救い主は、傷つき挫折している者たち、いのちの灯が消えかかっているような弱き者たちに深く関わるのです。単に「折らない」、「消さない」と言うだけの消極的なことではありません。傷つき、弱さを抱えて生きる者に温かな保護を与え、いのちを守り、強く支えて再生させてくださるのだということです。神の救いは、これらの弱さを持つ人たちのものなのです。

 このような働きをするための「神の僕」として、幼子イエスは人としてこの地に来られたのです。預言者イザヤは、「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける」と語ります。ここに語られている人物こそ、神が選んだ、神の御心に適った、神の愛する「神の僕」です。人間の選んだ人間的な救い主ではありません。権力や軍事力、経済力などとはまったく関係ありません。そのため、多くの人たちは救い主として認めようとはしません。幼子としてベツレヘムに生まれた時、泊まるべき家はありませんでした。

 だれにも、彼が救い主だとは思いません。「彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない」。人を蹴落としたり、競争してのし上がったり、「自分こそ、メシア・救い主だ」などと言いつのることもありません。多くの病む人をいやし、苦しむ者の友となり、静かに神への立ち帰りを語り続けました。そして、最後に十字架にかかり、すべての者の罪をその身に負って死なれました。

 クリスマスは、この十字架のキリストに「わたしの救い主」「世界の救い主」を、信仰の目をもって見る時なのです。このお方こそ、貧しく、弱く、叫び声さえ上げることも出来ないほどに打ちのめされている人たちのまことの救い主なのです。このお方に信頼するところで、不思議な方法で神の救いの恵みが実現するのです。