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第141回 遅くなっても、待っておれ

聖書=ハバクク書2章1-3節

わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

 

 今、教会暦では「アドベント」(待降節)という時を迎えています。クリスマスのシーズンは教会が最も華やぐ時です。アドベントは、そのクリスマスを準備をして待つ時です。「待つ」と言う言葉には幾つかの意味が重なっています。1つは、約束の救い主キリストの誕生を待つ旧約の人たちの「待つ」です。やがて到来したイエス・キリストは十字架において贖いを成就し、天に帰られました。主は今、天におられます。この天にいます主が再び、「わたしはすぐに来る」(ヨハネ黙示録22:20)と約束されました。2つは、この主の再臨を「待つ」のです。

 旧約の預言者ハバククは、祈りの中で神への信仰に生きた人です。紀元前7世紀頃、南王国ユダの人々はおびえて生きていました。当時、世界最強の力を持つバビロニア帝国の軍隊が近づいていたからです。軍隊のラッパの音、軍靴の響きが聞こえてくる。今日来るか、明日になるか。小国のユダはバビロニアの強大な軍隊に勝つことなど考えられません。戦いに負けたら、捕虜として捕らえられ、辱められ、殺される。

 ハバククは、緊迫した状況の中で歩哨として物見櫓に立っています。物見櫓の上から人々がうろたえ右往左往している様が見えます。恐怖の時、人は落ち着いていられない。預言者は物見櫓の上で祈ります。祈りはイスラエルの民の救いでした。助けはあるのか。生きる道があるのか。ハバククは民の苦悩を受け止めて、激しく神に問い、神の答えを待ちます。

 ハバククの祈りに神は応えられました。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」。

 2つのメッセージが語られました。1つは、だれでも遠くからでも読めるように大きな広告板を用意しろ、と。2つは、それにこう書けと。「神は終わりの時、救いの時を定めている。その時は、必ず来る、遅れることはない。待っておれ」。「終わりの時」とは、神が定めた救済の時です。神はイスラエルの民の救いを計画している。その時を忍耐して待て、と言われたのです。

 今、わたしたち日本の民は、旧約のユダの民と同じような困難の中に置かれ、右往左往しながら生きています。新型コロナ禍の中で生き悩んでいます。多くの人々が政治に期待しながらも、失望の中にあります。学業を中断した者、失業して子どもを抱えて生活苦にあえぐ女性たち、NGOの炊き出しなどに集う若者たち、都会にはホームレスとなり路上生活になっている者たち、さらには自死する者たちが増大しています。反面では、大企業では最高の収益を挙げているところもあります。

 最近の総選挙の結果には失望以外ありません。民主主義の基本である公文書を改ざんし、虚偽を答弁し、学者たちをきちんと待遇せず、国会の開催さえも拒み続けてきた自公政権が維持され、改憲を主張する勢力が増大しています。国民自身の多数が自分の国の歩みを危険な方向に進めているのですが、多くの人はそのことに気付いていない状況です。国家的な危機に際していると言っていいでしょう。

 預言者ハバククは「終わりはもう定められている」と言います。その時に向かって歴史は急いでいる。「たとえ遅くなっても、待っておれ」と。ハバククの語る「定められた時」「終わりの時」とは、メシア・キリストの到来です。救いの時が来るという確かな約束が語られ、その言葉の通り、やがて神の御子は人となり、十字架で贖いをしてくださいました。

 旧約の人々は、救いの時の到来を「待ち続けました」。ハバククは、神の救いの時は遅くならない、待っていろと語ったのです。今日のわたしたちもまた、待つ人々です。救いの完成は終わりの時を待たねばなりません。ハバククの預言はまだ完全には成就してはいません。わたしたちは神の子ですが、神の子としての救済のすばらしさ、救いの完成を味わうのは終わりの時を待たねばなりません。

 わたしたちはこの世界に使命を持って送り出されていますが、その働きが報いられるのも終わりの時です。キリスト者も、やがて来る終わりの時を待つのです。今、世界はハバククの生きた時代と同じです。テロが起こり、報復が連鎖して恐怖が世界を覆っています。わたしたちの国も大きな不安を抱えています。これから日本はどうなっていくのか。人の心はささくれ、憎しみが増大しています。この時代の中で、神の支配を希望をもって待つ者とされているのです。

 信仰とは「待つこと」です。母親は生まれた子が成長し成人する日を待ち望みます。命の成熟・成長のためには待たねばなりません。時をかけて待たねばならない。神の言葉に信頼して待つことが信仰そのもので、この信仰によって人は生きるのだと、ハバククは語ります。神の約束の言葉を信じて従う者はその信仰によって生きる。真っ暗闇の中でも、神の約束の言葉に信頼して、キリストが再び来られる時を待つ者として生きて参りたい。