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第140回 「味方」を切り捨てるな

聖書=マルコ福音書9章38-41節

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 

 最近の総選挙に際して、バラバラになっていた野党がある程度一本化されて選挙に臨んだことを心から歓迎しています。リベラルな人たちは強い固有の主張を持っていると言っていいでしょう。しかし、そこに固執する限り「共闘」することはできません。「小異を捨てて大同につく」という言葉があります。これこそが実は与党・保守系の人たちの姿勢です。権力保持という大同のために小異を捨てている大野合なのです。しかし、「小異」こそ大切にして捨てる必要はありません。固有の主張を大切にして実現の機会を望み見ることが必要です。そして、その実現のためにこそ、基本的に共通する基盤を共有する人たちとの共闘が必要なのです。

 このような想いの中で、上記の聖書箇所を選びました。ここでは、ヨハネがイエスにご注進しています。使徒仲間では、ヨハネは温厚な人となりを示しています。その温厚なヨハネがイエスに「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と語ったのです。この悪霊を追い出していた人たちがどういう種類の人たちであったのか。この時期、イエスが多くの病む人たちをいやして評判になっていました。そのため、イエスと関係のない人たちがイエスの名を使って悪霊を追放するいやしの働きを行っていたようです。相当多数の人たちがいたのではないでしょうか。

 このような事態に、弟子たちは憂慮して彼らに「イエスの名を用いるのであるならば、きちんとイエスを信じて、イエスの弟子となり、イエスに従え」と勧めたのでしょう。ところが、彼らはイエスに従おうとはしません。彼らにとって、イエスの弟子になることは考えもしないことです。イエスの名が利用価値があるだけのことです。「名」を用いることによって、悪霊が離れて、病が治るならば、それでいいのです。「イエスの名」を利用しているだけのことです。

 これに対して、ヨハネは憤り、「止めさせようとした」のです。純粋性の主張です。恐らく、この時、ヨハネは主イエスからお褒めの言葉があるだろうと期待していたかもしれません。彼らは金儲けという不純な動機でイエスの名を悪魔払いに用いていたのですから。今日でも、このような純粋性の主張は、キリスト教会の中に根強くあります。

 ところが、案に相違して、主イエスは「やめさせてはならない」と言われたのです。不思議なことです。彼らは、イエスの仲間でも、イエスの弟子でもありません。主イエスは弟子に対しては、はっきりと権能を授けて派遣しています(マルコ福音書6:7)。主イエスは「権能」の意味をだれよりもよく知っていました。しかし、ここでは、もっと広い視野に立って「やめさせてはならない」と言われたのです。

 「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言われました。教会は、しばしば、この視点と視野の広がりとを見失うことがあるのです。純粋の信仰者の仲間だけが「仲間なのだ」と思ってしまう。しかし、仲間だけが仲間ではない。味方がいるのです。味方となる人たちを失ってはならないのです。主イエスは「わたしたちの味方」の存在に気付かせてくださいます。

 日本では、キリスト教の信徒の数はたいへん少ない。カトリック、プロテスタント合わせても人口の1%前後です。しかし、キリスト教に好感を持つ人たち、理解者たちは決して少なくありません。キリスト教主義の学校の卒業生たち、キリスト教文学の愛読者たち、西欧思想の根底にあるものに気付いている学者・思想家たち、音楽家たち、多くの周辺の「味方」の人たちがいるのです。彼らの多くは、キリスト教の礼拝や集会などには顔を見せません。しかし、いざという時の「味方」なのです。これら周辺の人口は統計には出ませんが、相当に層が厚いのではないでしょうか。この「味方」、理解者たちを決して放り出してはならないのです。

 さらに、主イエスは大事なことをお語りになります。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と。「はっきり言っておく」は、主イエスが大切な真理を語る時の言葉「アーメン レゴー」です。キリスト者が試練の場に立つ時、迫害の場に立つ時、困難に際する時、水一杯を飲ませてくれる人がいたら「必ずその報いを受ける」と言われました。いざという時に、ささやかであっても温かな取り扱いをしてくれる人たちがいることは、心強いことです。主イエスは、キリスト者を取り巻く周囲の厳しさと共に、そのキリスト者に対して温かく処遇してくれるものは「味方なのだ」と言われました。そして、神ご自身が、その良き行いに「報いる」と言われているのです。