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第139回 人を恐れるな

聖書=マタイ福音書10章29-31節

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 

 主イエスは、「わたしはあなたがたを遣わす」(10:16)と言って、弟子たちすべてを「伝道者」として派遣されました。ここで語られている派遣は専門の伝道者だけではなく、弟子たちすべてです。一般の信徒です。そして、主イエスご自身が、この派遣は「狼の群れに羊を送り込むようなもの」と言っています。キリストの弟子であるキリスト者は、決してこの世から歓迎されるものではなく、むしろ危険の中に送り込まれているのです。

 キリスト者は、この世にあっては異質な存在です。この異質性を自覚することが大事です。生の基準が違うからです。神を信じて生きることは、神の言葉を基準にして生きることです。この世に生きる人たちの基準は「自己中心」です。自分の欲望が基本です。人を押しのけ、自分さえよければいいという手前勝手です。これが罪の世界です。あからさまに欲望を語らずに、いろいろ飾られた言葉が用いられますが、基本は「欲望の満足」です。

 このような世の人たちの生き方とまったく対照的なのが、神に従って生きる生き方と言っていいでしょう。キリスト者の生き方こそが世の人たちにとっては目障りなのです。自分たちの罪を照らしだし、指摘し、自己中心の醜さをさらけ出してしまいます。そのため、キリスト者はいつの世、いつの時代にあっても、基本的にこの世の人々から、嫌われ、除け者とされます。迫害と弾圧を覚悟しなければならない時も起こります。

 ここに「恐れ」が生じます。キリスト者は決して勇者でも命知らずでもありません。自分の弱さを誰よりもよく知っています。派遣者であるキリストは、このキリスト者の持つ弱さと恐れとをよく理解してくださいます。ですから、派遣の言葉の最後に語られたのが上記の「神の保護の約束」です。

 主イエスは、まず「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(10:28)と言われました。人はどんなにしても体を殺すだけです。しかし、真に恐れなければならないのは、永遠の世界で魂までも滅ぼすことのできる力を持つ神だけなのです。

 その最高の力を持つ神が、あなたがたをしっかり守り抜いてくださると語られているのです。主イエスは、神の保護を「例え」をもって分かりやすく語られました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と言われます。当時、食用のため市場で雀が安価に売られていた。二羽一束で1アサリオン。1アサリオンは1デナリオンの16分の1と言われます。換算すれば数百円、3百円位でしょうか。一羽では2百円、二羽一括りにして3百円というところです。「二束三文」という言葉があります。「だが」、しかし、神はこのような安価な雀さえも摂理の御手の中にしっかり置かれている。神の許しがなければ、地に落ちることはない、と言われたのです。

 主イエスはさらに「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と言われました。髪の毛は無意識のうちに抜け落ちていくものです。だれも気にも留めません。だれも気にも留めない髪の毛を、神は「数えている」のです。髪の毛だけのことではありません。わたしたちの体の一部一部、見劣りするような部分も、神はしっかり見ておられて神の保護のもとに置かれているのだ、と言われたのです。これらのことを「摂理的保護」と言います。

 「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。これが、すべての弟子、キリスト者をこの世に派遣された時に語られた主イエスの最後のお言葉です。この言葉は、人間は他の動物などよりも優れていると語る言葉ではありません。摂理的保護を超えている。神の関心が「ここに集中している」ということなのです。神は人を「神の形」として造られました。人は、単なる被造物ではありません。神との対話の相手、神の代理者として造られたのです。そのゆえに、神は人の在り方について深い関心を持って取り扱われます。

 それだけではありません。ここで「あなたがた」と言われているのは、キリストを信じる「神の子ら」です。「神が御子の血によってご自分のものとなさった」(使徒言行録20:28)特別な存在です。宝の民です。主イエスの血による贖いによって「神の子ら」とされているのです。父である神は、あなたがた神の子らを特別に顧み、配慮を与えてくださり、神の前から決して失われることはないのです。「だから、恐れるな」、「恐れる必要はない」と言われたのです。キリストを信じる者は、神の永遠の愛による保護の御手に包まれているのです。