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第136回 内に塩を持て

聖書=マルコ福音書9章49-50節

「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 

 今回は、上記の聖書個所から、最近、わたしが感じていることをお話しさせていただきます。牧師を引退してからしばらく経つため、最近のキリスト教会の内部状況についてはよく分からない面が出てきています。見当違いなことをお話しするかもしれません。

 わたしは、戦後すぐに信仰の道に入りました。その頃は教会の戦争責任が強く語られていました。戦争直前の教派合同の妥当性、信仰告白の課題、少し降ると60年安保、70年安保などによって教会の存立、集会の持ち方、信仰の在り方までもが激しく揺さぶられました。しかし今、キリスト教会はこの激しさを失ってしまっているようです。激しかった反ヤスクニ闘争も影を潜め、最近の天皇の代替わりでも大きな声が挙がりませんでした。教会の言動にも鋭さがなくなり、丸くなってきたような感じです。

 そして、この間、日本の保守層の人たちは着々と現在の日本国憲法の体制を崩壊させて、旧大日本帝国憲法の体制への復帰を進めてきていると感じています。「日本会議」に集まる人たち、そこに集まる政治家の人たちを中心にしてと言っていいでしょう。建国記念の日の制定に始まり、国旗・国歌の法制化、教育基本法の改悪、安保関連法制、積極的平和主義という名での戦争の出来る国造り、……が実現してしまっています。

 どんどん思想や学問、宗教などの自由権、国内外の人々の人権が奪われていっているのです。旧「国体」…天皇を中心とした家族国家観・システムへと道備えされています。その結果、「基本的人権」にかかわる事柄が後退化し、この流れに馴らされてしまっています。このような事態に目をつむっていて良いのでしょうか。

 このような時に、教会とキリスト者がしっかりと受け止めねばならないのが、主イエスの御言葉です。上記の聖書の言葉「自分自身の内に塩を持ちなさい」は、主イエスが弟子たちに語られた言葉です。ある鋭さを持つべきことを示された警告の言葉です。

 主イエスは先ず、「人は皆、火で塩味を付けられる」と言われました。「人は皆、…」と言われます。ここで「信徒は」とも「弟子たちは」とも言われていません。試練と迫害は、一部の人だけの問題ではありません。信仰者や弟子たちから始まっても、その影響は直接に、間接に、「人皆・一般人」にかかわってきます。この「火」は、主イエスの語られた言葉の文脈から「試練や迫害」を指しています。最早、火が足元から燃えているのです。キリスト者の学校教師は、国旗・国歌に従えません。子どもたちが歴史修正主義の教科書で教えられています。キリスト者であることを公言することにためらうこともあります。現実に、今すでに、試練と迫害が始まっており、直面しているのです。

 主イエスは、人は試練と迫害によって「塩味を付けられる」と言われました。「塩」を持つこととなるのです。試練と迫害のもたらす「結果」と言っていいでしょう。ここで言われている「塩」とは、何でしょうか。主イエスはいろいろなところで「塩」について語られています。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ福音書5:13)。キリストの弟子たち自身が「地の塩」だと言われています。

 しかし、マルコ福音書では、「自分自身の内に塩を持ちなさい」と言われているのです。内にしっかり塩を持つことによって、人は地の塩として生きることが出来るのだと言っていい。塩の第1の働きは腐敗の防止です。その意味で、主イエスが語られた塩とは「義、正義」の例えなのです。試練と迫害を受けることによって、人は虚偽と不正に直面し、不義を知り、不公平を認め、虚偽と不正に対して怒りを感じて、義の回復を求めるのです。

 「塩を持つ」とは、義に基づいたクリティカルな生き方のことです。時代の風潮に同調して生きるのではない。権力者の意向に忖度して生きるのではない。しっかりと真理に基づく自立した歩みをすることです。時代の流れに抗して、聖書の言葉、神の言葉に堅く立って生きることです。

 そして「互いに平和に過ごしなさい」と言われました。内に塩を持つ時、大事なことは争い合うのではなく、平和を心がけることです。平和は決して時流に流されることではありません。平和の内に「義」を訴えていくのです。これこそ、主イエスの弟子としての生き方なのではないでしょうか。わたしたちは「内に塩を持」って生きているでしょうか。