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第132回 娘よ、起きなさい

聖書=ルカ福音書8章52-56節

人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。

 

    上記の出来事の少し前の経緯からお話します。異邦人の地に出かけていた主イエスがユダヤの地に戻ってきました。そこに会堂長のヤイロが出迎え、主イエスの足元にガバッとひれ伏しました。異例の出来事です。「十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていた」ので、「自分の家に来てくださるように」と願ったのです。切実な願いでした。主イエスもヤイロの頼みを快く受けて一緒に出かけました。

 しかし、途中で1つの事件が起こった。12年間出血が止まらないで悩んでいた女性の出来事です。ヤイロはこの女性の出現にいらいらした。多くの人の手前、文句を言うことも出来なかった。すると、会堂長の家から人が来て「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言われた。ヤイロの切なる願いは虚しくなってしまった。

 ヤイロにとって娘はかけがえのない宝物でした。大事に育ててきた一人娘がやっと一人前になろうという時に失われてしまった。百方手を尽くし、恥を忍んでイエスにもお願いに来た。しかし、死は一切のピリオドです。もうどうにもならない。死という現実の前では、会堂長ヤイロの願いも虚しいものになった。「遅かった」という思いで一杯だった。イエスがもう少し早く来てくれたら、と思ったでしょう。

 けれども、主イエスにとって遅すぎることはありません。遅すぎると考えるのは人間的な思いに過ぎません。神の時があります。ヤイロの求めに応えるために出かけて行きます。主イエスはヤイロに言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」。信仰は、出来ることを信じることではない。可能性があることを信じることではない。どうにもならないところで力を持つのです。

 ヤイロの家に着きました。聖書の個所はこの場面です。家の中では人々が「娘のために泣き悲しんで」いました。葬式の準備で忙しくしていた。その中で主イエスは「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。これを聞いた人々は娘が死んだことを知っているので「イエスをあざ笑った」。イエスのお言葉であってもあざ笑うのが当然でしょう。死んでしまっている。人間の力ではどうしようもない。わたしたちにもイエスの言葉をあざ笑った人たちの気持ちがよく分かります。

 けれど、ここで忘れられていることがあります。主イエスの存在が忘れられている。主イエスが臨在し、主イエスが語られている。主イエスには復活の命、永遠の命が委ねられているのです。復活の主がここに立っておられることを忘れて、そんなことがあるものかとあざ笑っているのです。主イエスは娘の置かれている部屋に入りました。

 ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しになりません。復活の証人となる弟子たちとこの悲しみを本当に担っている両親だけが立ち会うことを許された厳粛な時です。そこで、「主イエスは『娘よ、起きなさい』と言われた」のです。永遠のいのちを持つお方、やがてご自身がよみがえられる復活の主が立っておられるのです。そのお方が「娘よ、起きなさい」と言われた。「すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった」。「娘の両親は非常に驚いた」と記されています。

 両親と弟子たちの驚きの中には、かねてから主イエスに対して「この方はいったいだれだろう」という問いがありました。今、この一人娘を生き返したことをもって、主イエスは死人を活かす力を持つお方であることを示されたのです。また、主イエスがわたしたちの祈りを聞いてくださるということは、死人を活かす力をもって祈り求めに応えてくださるということです。わたしたちが祈る時に、このことを確信して祈るのです。

 「もう駄目です。もう手遅れです。遅すぎます」、こういう言葉を、どれほど聞いたでしょう。「もう、わたしの人生は終わりです。希望がありません」と。キリスト教信仰は復活信仰を核としています。復活信仰は終わりの時の死人の復活だけではありません。すべてが手遅れになり、すべての希望が断たれたところで、もう一度回復するという信仰です。希望が虚しくなるところで、しかし、祈りが応えられるという信仰です。人の力が尽きるところに、復活の主が立っていてくださいます。復活の主がおられるならば、希望があることを確信して生き直すのです。