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第129回 あなたの重荷を主にゆだねよ

聖書=詩編55編23節

あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。

主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。

 

 ある方から相談を受けました。その方は、ご家族のたいへんな重荷についてお話くださいました。お話を聞き、幾らかのことをお話しし、聖書を読んで一緒に祈りの時を持ちました。上記の聖書個所は、その時に読んだところです。わたしは旧約詩編が大好きです。悩みの時、課題を抱えた時、考えあぐねた時など、詩編をパラパラッとめくって読みます。慰められ、励まされ、ハッと気づきを与えられる御言葉に出会います。あなたも、詩編をパラパラッと読んでみませんか。

 わたしたちは、人生途上で、いろいろな重荷を負わされます。仕事上の重荷もあります。家族の重荷もあります。愛する人のため、子供たちのために、喜んで負うような重荷もあります。最近では、新型コロナウィルスの感染禍によって、思いがけない形で、思いもかけなかった重荷を背負い込まされることも出てきました。

 重荷のない人生というものは存在しないでしょう。生きるとは、何らかの重荷を担うことです。徳川家康は「人生は重き荷を負って山道を行くがごとし」と語ったそうです。仕事を持ち、家族を持ったら、男性であれ女性であれ、何らかの重荷を負い、むしろ、重荷を負うことを自らに引き受けるのです。それらの重荷は、むしろ重荷とは言わず、自らの「務め・責任」として受け止めるのではないでしょうか。

 ところが、その「務めや責任」が、いつしか「重荷」として負担になり、ずっしりと肩に掛かってくるのです。重荷を負うと、「これは、わたしでなければ…、自分こそが…」と、自分の力を過信して、あれやこれやと手を打ちます。ところが、いろいろと手を打つ度にますます複雑になっていってしまう。丁度、ぬかるみにはまった車を動かそうと焦れば焦るほど、ますますぬかるみの中に深く沈んでいくのと同じです。努力したつもりがいよいよ悪くなり、いよいよこじれてくるのです。そこで、この重荷から逃げ出したくなります。

 こうした重荷に苦しむわたしたちに、詩編55編の作者であるダビデは「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたを支えてくださる」と語りかけてくれています。ダビデは、混乱の中にあったイスラエルの部族を統合して1つの民として治め、王国を築きました。王として重荷を担いました。女性のことでも失敗し、預言者に問責され、やがてその罪の重荷にも悩まされます。晩年には息子にも裏切られ、王宮から逃げ出すようなことも経験しました。

 ダビデは信仰者でしたが、多くの失敗と罪とを犯しています。その中で、多くの重荷を背負いました。しかし、彼の偉大なことは、悩みと重荷の中で神を信じて生き抜いたのです。神こそ、ダビデの助けでした。不断に神に祈り、その重荷を訴えたのです。そして、神に支えられて歩みました。この御言葉は、彼の人生から紡ぎ出された貴重な言葉です。

 わたしたちは、多くの重荷をしぶしぶ負うことになるのではないでしょうか。重荷とは、そういうものです。そして、重荷を自分一人で何とか背負おうとして、歯を食いしばって頑張ろうとします。しかし、ダビデはわたしたちに、「主なる神がおられる」と語り、「神におまかせするのだ」、と語るのです。わたしたちは決して孤独に生きるのではありません。主なる神が、重荷を負って生きるわたしたちの人生を共に担って支え抜いてくださるのだと、いうことです。

 問題は「ゆだねること」です。「ゆだねる」とは、神を信頼して神の御手にお任せすることです。これがなかなか難しいのではないでしょうか。「ゆだねる」と言っても、なかなかゆだねきれません。自分の思い通りにならないと、まかせきれないのです。「ゆだねる」ことは、横から口出しをしないで、任せてジッと見守り、待つことです。そうすれば、わたしたちのことを一番わかり、心配してくださる神が、わたしたちにとって一番良いように道を開いて、解決してくださるのです。

 ダビデは、続けてこう語ります。「主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」と。これは、彼の生涯をかけての信仰の告白と言っていいでしょう。神は、神を信じて従う者を助け支えてくださいます。多くの失敗にも関わらず、神は真実をもって彼の生涯を支え抜いてくださいました。以前の口語訳では「主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない」と訳しています。「正しい人」とは、主なる神を信じ従う人のことです。神に重荷をゆだねて生きる人のことです。そのような人の歩みは決して「動かされない」「動揺しない」のです。