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第120回 天国で一番偉い人

聖書=マタイ福音書18章1-5節

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 

 どの世界でも出世競争みたいなものがあります。キリスト教界でも例外ではありません。大教会の牧師や教派の理事長と呼ばれることを望んで醜い狂騒をすることがあります。イエスの直弟子たちも例外ではありません。弟子たちがイエスの元にきて言いました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と。これは世の関心事で、出世競争、自己顕示欲などからきています。ここから劣等感、ノイローゼ、心身症などが出てきます。

 同じような質問が繰り返され、最後の晩餐の席でも、だれが偉いかとの争いがあったと書き残されています。福音書の中で、このような争いが繰り返されたことを記しているのは、このような争いが教会の歴史の中に繰り返し起こることを予見し、注意しなさいと警告しているのです。

 主イエスは、この時、どうしたでしょう。あなたが一番、次はおまえだ……というような序列を作りません。主イエスは「一人の子供」を呼び寄せます。子供は「幼児」と訳すべきです。ユダヤでは幼児は「ものの数」に入らない存在でした。その幼児を真ん中に立たせて「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われました。「はっきり言う」とは「アーメン」です。大事なことの告知です。

 だれが偉いか、序列がどうか、ではない。イエスの視座の中には、そんなことはまったく入っていません。大事なことは、天国に入れるかどうかです。弟子たちの序列トップになっても、天国に入れないのではなんにもならない。大事なことは天国に入ることです。

 主イエスは、天国に入れる条件を幼児において示されました。幼児の特色は信頼です。幼児が母親の胸に信頼して抱かれるように、神を父と呼ぶ者は幼児のように神を信頼するのだと言われたのです。子供の場合、信頼という在り方は生得的です。大人になるにつれ、幼子らしい信頼は失われます。そのため「心を入れ替える」「回心」、へりくだりが求められます。大人の場合、信頼は生まれたままの幼児性でなく神に方向転換して与えられる信仰のへりくだりです。

 主イエスは「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われました。ここで、「偉さ」の逆転が語られている。「俺が一番だ、トップだ」と胸を張る者が偉いのではありません。低きにある者、へりくだり、人に仕えて生きる者が、「天の国でいちばん偉い」のです。人に仕えて生きることが、神の国の生き方なのです。

 さらに、主イエスは「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われました。「このような一人の子供」とは、誰のことでしょう。文字通りには「幼児」です。第1義的には、幼い子供たちを指しています。今日、教会に子供を連れてくる親がたいへん少なくなっています。とりわけ、日本ではキリスト教宣教の当初から礼拝から子供が除外されてきました。説教が分からないという理由からです。

 しかし、分かるか分からないかではありません。会堂内を駆け回ってうるさいと言われます。コンサートと勘違いしています。教育学的な観点から「受け入れる」のではありません。「わたしの名のために」です。キリストがすでに受け入れています。その故にです。キリストが受け入れている存在を、わたしたちの感性や人間的センスによって拒んではならないのです。

 イエスの言葉の中には、年齢的に幼い子だけでなく、社会的な弱者、助けを必要としている者も含められています。教会は、弱い者たち、小さな者たちを拒んではならない。キリストが世に来られた目的は、幼い者、弱い者、小さな者を救うためです。使徒パウロはこう記しました。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(Ⅰコリント1:27-29)。

 わたしたちが救われたのは、偉いからでも、富んでいるからでも、能力があるからでもありません。小さく、弱く、見捨てられている者だから救われたのです。「小さな者」とか「弱者」と言うと、「わたしは小さくない、わたしは弱者ではない」と思います。しかし、主イエスは、実はあなたがたは助けを必要としている小さな者、神から迷い出て救いを必要としているのだと、言われるのです。神の目から見たら、どんな人も小さな者であり、幼児であり、弱さを持つのです。だから、救われたのです。この恵みによって生かされているのですから、わたしたちは互いに、小さな者、弱い者たちを受け入れていくのです。小さな者へ注がれている神の慈愛に気付く者となりましょう。