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第117回 受難のキリストに従う

聖書=マタイ福音書16章21-24節

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 

 この箇所は「ペトロの信仰告白」を受けて、イエスがご自身の歩むべき十字架への道について弟子たちに語られたところです。「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と語られました。弟子たちだけに「打ち明け始められた」のです。

 すると、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたペトロが、イエスを脇に連れ出して「いさめた」のです。年長者が年若い者を「いさめる」のと同じです。これには「メシア・キリスト」についての根本的な誤解があったからです。ペトロは、イエスを指して「メシア・キリスト」と告白したものの、メシア・キリストについての理解が大きく異なっていたのです。これはペトロだけの問題ではなく、イエスとユダヤ教と間に、メシア・キリスト理解についての埋まることのなかった大きな溝があったからです。

 旧約聖書の中から、2つのメシア・キリスト像を読み取ることが可能と言っていいでしょう。1つは、出エジプト記のモーセの姿に見るメシア像です。圧制者であるエジプトの王ファラオと戦い、民衆をまとめて出エジプトという民族解放を成し遂げた指導者像です。このメシア像の先にダビデ王を見ることも出来ます。このモーセ・ダビデのようなメシア像こそ、ローマ帝国の支配からイスラエルの民を解放してくれるメシアとして、多くのイスラエルの民が待ち望んでいたものでした。イエスの弟子たちも、少なくとも、この時までは、このような世俗的・力による解放者としてのメシア・キリストを考えていたのです。

 これに対して、イエスが弟子たちに「打ち明け始められた」メシア・キリスト像はまったく異なるものでした。イザヤ書53章が語るような「受難のメシア・キリスト」でした。「(彼は)、捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを」(イザヤ書53:8)。ここに示されているのは、旧約の贖罪の道筋、代償的贖罪を担う小羊としてのメシア・キリストの在り方なのです。

 イエスは「必ずエルサレムに行く」と言います。エルサレムには神殿があり、神が贖いの供え物を捧げる場所として定めたところです。そこで、ご自身を贖いの供え物として捧げる。これがイエスの十字架の意味でした。「必ず」とは、これが父なる神から定められた務めであり、実現させると言われたのです。イエスが示されたのは、この受難のキリストの道でした。

 イエスは、ペトロに対して極めて厳しい言葉で叱責しました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と。イエスを「神の子・キリスト」と信仰告白したばかりの最も信頼できる弟子のペトロを、「サタン」と決めつけたのですから、普通ではありません。それほどに「メシア・キリスト」についての理解の誤りは重大なことでした。決定的な相違と言ってよいでしょう。イエスのメシア・キリストとしての歩みは、民族解放者としてのメシアではなく、徹底的に受難のメシアのものでした。

 このように語られたイエスは、それから弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたのです。ここに、イエスに従う弟子の在り方が示されています。この世的な栄光のメシアへの期待ではありません。自分を棄てることが求められます。持ち物、財産、名誉、地位などを棄てることだけではありません。もっと深い意味があります。自分でも気付かない自分の内に深く絡みついている執着や思考法です。ものを捧げても、しっかり握りしめている自我、自己主張を棄てて、受難のメシアに従うのです。

 「自分の十字架を背負って」と言われました。自分の十字架とは、自分の弱さではありません。それらのものを意味する時もありますが、この「自分の十字架」とはキリストに従う時に、それぞれに背負わされる重荷です。ゴルゴタへの道を歩まれたイエスの十字架を担ったクレネ人シモンのように、キリストを信じ従う者としての重荷が与えられるのです。キリストの故に、罵られ、辱められ、仲間はずれにされ、苦難に遭うこともあります。それらの重荷を背負ってイエスの後に従うのです。これが、イエスの弟子の歩む道なのだということです。あなたの歩みは、どうなっていますか。