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第114回 孤独の時にいます神

聖書=創世記28章15節

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。

 

   今回も上記の旧約聖書の言葉から学びます。皆さんは「ひとりぼっち」を経験したことがありますか。青年時代に、親元を飛び出して一人の生活を始めたような時、支えを失った「ひとりぼっち」を体験するのではないでしょうか。最近はコロナ禍の中で、仕事や職が失われ、生活の支えを失ったり、入院した人を見舞うことも看取ることも出来ない状況です。人は支えを失うような時、深く孤独を感じるのではないでしょうか。

 旧約聖書の創世記に、ヤコブという人が登場します。神の民イスラエルの族長と言われる人の一人です。実はこの人の場合、その生涯の中で何度も深く孤独感を味わわされました。聖書を読むと、この人自身の内部に、孤独感を味わうことになる根本的な課題を抱えているのですが、それでも孤独は辛い体験です。

 ここには、彼の最初の孤独体験が記されています。ヤコブには、兄にエサウという人がいました。ヤコブは、父のイサクが兄のエサウの方を愛して、自分を愛してくれないと思いこみました。ところが、母親のリベカは逆に弟のヤコブを偏愛しました。その母親の偏愛を利用して、いたずらしたり、大事な機会に兄エサウと父とを騙したりしました。本来、兄が受け継ぐべき祝福権…家の相続権とも呼ぶべき権利を詐取したのです。兄は当然怒り狂い、ヤコブを憎み、心の中で言います。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる」(創世記28:41)。

 これでは、ヤコブと言えども落ち着いて父の家にいることは出来ません。「身から出た錆」とは言え、住み慣れた父の家を飛び出し、逃亡することにしました。母親リベカの実家があるハランの地に逃げて行かざるを得ませんでした。旅路は快適なものではありません。遠い異境の地に向けて、初めての道をトボトボと歩むのです。親の支えを失い、孤独の道を歩むことになりました。母親に甘えてずいぶん悪辣なことをしてきたヤコブですが、見知らぬ国への旅では本当に心細くなりました。孤独な旅の中で、自分の犯した過ちの大きさにも気付きました。これから、どうなるのか。生きる道が見えません。不安でした。頼るべきもの一切を失ってしまったのです。

 しかし、このような孤独の時こそ、人は豊かに成長する時なのです。自分の過ちに気付いた時こそ、神の祝福をいただく時なのです。頼るべきものを失った孤独の時こそ、神を見上げて神に信頼する時なのです。ヤコブは、今までの家族への甘え、とりわけ母親に甘えることが出来なくなった時、神への信仰を取り戻したのです。試練の中で、自覚的な信仰へと導かれたのです。

 「ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」と記されています。荒れ野で寝る。石を枕にして寝なければならない。その時に、夢を見ました。天に達する階段が延び、神のみ使いが上り下りしています。その中で、神の語りかけを聞いたのです。それが上記の言葉です。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、決して見捨てない」。

 人生に失敗して、ひとりぼっち、孤独になった時こそ、神の語りかけを聞くチャンスなのです。ヤコブという人は、実に不思議な人です。彼の人としての性格は相当に癖があり問題のある人です。晩年になると練れて優れた人となりますが、若い頃は才気があり、人を人ともしないで人を貶めたり、意地悪をしたり、自分の得になることのためには何でもして、多くの人から憎まれました。しかし、このヤコブは不思議なことに神を信じ、信頼することではしっかりしていたのです。神を素直に一筋に信じていた。

 この一筋の信仰を、神は見ていて下さるのです。わたしたちは、人の品性や所業を見て人を評価します。しかし、不思議なことに、神は、必ずしも人の品性や所業でなく、かなり悪辣な人をも救いの恵みの中に入れて下さるのです。人の見るところと、神の見るところとは、かなり違うと言っていいでしょう。こんな品性下劣な自分には救いはないと思い込まないでいいでしょう。

 自業自得と言ってもよい逃避行の孤独の中でも、神は彼を見放さないのです。行き先のメドも立たない逃避行の中で、神は彼に「わたしはあなたと共にいる」と言われました。ひとりぼっちだと思っていましたが、神が共にいて下さるのです。「インマヌエル」の神です。わたしたちは信仰の目を見開いて、神が「自分」と共におられることを受け止めることです。それだけでなく、神は救いを実現して下さる神です。「あなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」と約束して下さっているのです。

 ヤコブは、今ひとりぼっちに見えます。しかし、信仰の目を開いて見れば、なによりも心強い神が一緒にいて、支え見守り、保護し、将来を切り開いて下さるのです。「ヤコブ」は決して他人事ではありません。ヤコブは「わたし」なのではないでしょうか。神は、わたしたちといつも一緒にいて、わたしたちを守り、支え、保護し、将来の道を開いて下さるお方なのです。