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第112回 わたしの教会を建てる

聖書=マタイ福音書16章17-19節

すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 

 今回は、この箇所から「教会」を学びます。「教会」とは、いったいどういうものでしょうか。イエスは、「わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。ここに「教会」というものの真髄が語られているのです。

 マタイ福音書16章17-19節は、「ペトロの信仰告白」に対するイエスの応答です。「シモン・バルヨナ」と言います。ペトロの本当の名前です。「シモン」が個人の名です。「バルヨナ」とは「ヨナの子」という意味です。バルは「~の子」、父親の名が「ヨナ」です。日本の「姓」に当たるものはありません。父親の名を付した正規の呼び方です。

 「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われました。「あなたこそ、生ける神の子キリスト」とは、弟子たちがイエスに出会ってから真剣に考え続け、「いったい、この方はどなたなのだろう」と、問いを重ねながら辿り着いた結果の答と言っていいでしょう。しかし、イエスはこれは彼ら自身の探求の結果ではなく、神の啓示だと語っているのです。神が示してくださるのでなければ、人間的な探求の努力だけでは信仰の真理には決して辿り着けないのです。そのため「あなたは幸いだ」と言われたのです。

 わたしたちは、神とその救いを求めて探求の歩みをします。これを「求道」と言います。そして、聖書を読み、教会の交わりの中で懸命の探求を致します。その結果、神のすばらしさ、恵み深さ、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を知って、自分の言葉で「我、信ず」と信仰の告白をします。しかし、これは決して自分の努力の結果ではなく、神がこのような求道の道を介して、神ご自身が恵みの道を現してくださったことによるのです。求道の歩みを通して、神がご自分を示してくださるのです。信仰は神の恵みです。

 イエスはシモンに言います。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と。ここに、教会を建てるイエスの決意が述べられているのです。ここから「ペトロ」が始まります。「ペトロ」という名は、イエスの命名になるものです。「ペトロ」の意味は「岩」です。「ペトロ」という命名と「この岩の上に」という言葉とが掛詞になっています。「わたしの教会」、つまりキリスト教会は、ペトロという「この岩の上に」建つのです。

 「この岩」とは、何を意味しているでしょうか。この理解を巡って多くの議論がなされてきました。ローマ・カトリック教会では、ペトロ個人を意味していると理解するようです。大方のプロテスタント教会では、「ペトロの信仰告白」と理解します。ここでは、この議論に立ち入りません。プロテスタント教会の理解の上に立ってお話ししていきます。キリスト教会は、このペトロの信仰告白の上に立つのです。イエスを神の子と信じ、キリスト・救い主と信じ受け入れる信仰です。まことに貧しい人の子です。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ書53:2-3)。この人を、神の御子・キリストと信じる。これがキリスト教信仰の基本です。この信仰の上に「教会は立つ」のです。

 皆さまは、「教会」というと、どんなものを思い浮かべるでしょうか。建物の上に立つ十字架のしるしを見て、「アッ、ここに教会がある」と言うのが一般的です。しかし、それは建物です。「教会堂」です。教会とは、そこで神を礼拝する人たちの集まりのことです。イエスを神の子、キリストと信じて、神を礼拝する信徒たちの信仰共同体なのです。

 ここには、何の差別もありません。大人も子どもも、男も女も、国籍や人種も、肌の色も、能力がある者も無い者も、病む者も病まない者も、障がいある者も無い者も、一切の隔てはありません。イエスを神の子と信じるところで、すべての障壁が取り除かれて、神を見上げて生きるのです。これが、イエスが建てようとした「わたしの教会」なのです。この地上にある教会は、まだ未完成です。形成途上です。なお多くの差別が見逃されています。罪があるのです。しかし、終わりの完成を目指して、教会は歩み続けていくのです。あなたもイエスを神の子と信仰を告白して、この教会の歩みに加わりませんか。