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第108回 復活の主との出会い

聖書=ヨハネ福音書20章19-23節 

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

 今年のイースターは、4月4日(日)です。主イエスの死者からの復活を記念して祝う時です。ここに記されているのは、イエスが復活した日の夕方のことです。弟子たちはユダヤ人を恐れていました。理由があります。朝早く墓に行った女たちから知らされたイエスを葬った墓に遺体がないという報告です。マグダラのマリアから生ける主にお目にかかったというニュースも耳にはしていました。しかし、信じられることではありません。弟子たちは最初からイエスの復活を信じていたわけではなかった。イエスを殺しただけでなく、遺体をも辱めようとしていると受け止めた。自分たちをも捕らえに来るだろう。

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」のです。戸に鍵をかけ息を殺して潜んでいた。戸を閉じ鍵をかけることで、ひとまずの安心を得ていたのです。するとそこに、イエスご自身が突然現れ、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。これが復活のイエスとの出会いです。戸は閉められたままです。「平和」とは「シャローム」です。シャロームは今日、イスラエルでよく使われている日常の挨拶の言葉「こんにちは」です。

 ヨハネ福音書では、この言葉は単なる挨拶ではありません。主イエスが去って行かれる時に約束した「平和」「シャローム」です。ヨハネ福音書14章27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」。どんな時にも、神が共にいますという確信に立つ安心、穏やかさ、満足、信頼の状態です。

 イエスは「手とわき腹とをお見せになった」。なぜ、イエスはこのことをなさったのか。たいへん大事なことです。十字架で死んだイエスと、今ここで生きているイエスが、同じお方であることを明確に示されたのです。十字架に死んだイエスと似ているお方がいるのではない。十字架の主と復活の主とは別の人ではない。十字架で死んだ、まさにそのお方が確かによみがえって、今生きておられることの確認のためです。十字架の主が復活の主であること。今ここにおられるお方が、一度確かに死んだ者であることを目で見て確認し、納得させるためです。復活による勝利を、死から命に移っていることを、具体的に示されたのです。

 死んだお方が、死に勝利して、今ここにおられる。弟子たちの恐れも心配も一気にふっ飛びました。ホッとしたというだけのことではない。「弟子たちは、主を見て喜んだ」と記されています。イエスの復活は、弟子たちに一時の平安を与えたのではありません。根本的な解決です。ですから喜びです。生ける主と再会した。死に勝利したイエスを目の当たりにし、大きな喜びに満たされました。復活のイエスに出会ったことの喜びが救いの恵みの根本です。イエスの十字架と復活によって、自分たちは罪と滅びの中から救い出されたという喜びです。

 キリスト教信仰の基本の調べは喜びです。生けるイエスと出会った喜び、救われた喜び、いのちの喜びが信仰生活を貫いていくのです。「喜び」は、感情的、感覚的なことと理解されがちですが、キリストに出会って与えられる喜びはキリスト者の生きる力なのです。愛する者を失った時でも、一切の財産をなくしたような時でも、決して失われることのない救いの喜び、生きる力です。「主を見て喜ぶ」喜びは、生けるキリストに出会って本当に救われた喜び、キリストに結ばれて復活のいのちに活かされている喜びなのです。

 その後、弟子たちに対して、主イエスは「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言い、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われました。これは復活の主による伝道への派遣です。

 弟子たちは恐れから喜びに変えられました。イエスは、弟子たちが味わった喜びを伝えるようにと遣わされます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。父なる神から主イエスが遣わされた。今度は、主イエスがわたしたちを派遣されます。キリスト者は派遣されているのです。この派遣の自覚を持たねばならない。

 聖霊において、復活のイエスが一緒にいてくださいます。主イエスが地上におられた時、神の言葉を語り、人の罪を赦し、病む者たちをいやされた。そのお働きの中に、わたしたちを加えてくださるのです。「聖霊を受けなさい」とはペンテコステの先取りです。聖霊はキリストの御霊です。福音が伝えられるところに聖霊があり、聖霊があるところに復活のキリストがおられ、共に働いてくださるのです。主日の礼拝は「ミニ・イースター」です。礼拝において、聖霊の息吹に活かされて、福音を伝えてまいりましょう。