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第107回 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

聖書=マルコ福音書15章33-39節 

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

 

 今回は、イエス・キリストの受難について記します。イエスは最後の晩餐の後、ユダの裏切りによって神殿当局者に捕らえられ、その夜からあちこちと引き回され、夜が明けると総督ピラトの法廷で十字架処刑が決まり、直ちに執行されました。

 「昼の12時になると、全地は暗くなり」。この時、イエスは十字架の上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と叫ばれました。「わたしは神に見捨てられている」という悲痛な叫びです。以前、求道者会で大学生から「なぜ、イエス様ともあろう人が、こんな惨めな言葉を出したのか」と質問されました。イエスは勇敢な殉教者のように死んだと思っていたのでしょう。ところが聖書が記すイエスの死の姿は違っていた。同胞に見捨てられ、弟子たちからも見限られ、神からも見捨てられている。惨めな見捨てられた人間としての死でした。「なぜ」と思うのは、当然のことです。

 イエスの十字架の死は単なる肉体の死ではありません。イエスは今、確かに肉体の死に直面しています。しかし、肉体の死は必ずしも「神の見捨て」ではありません。イエスは、肉体の死と共に、ここで神の裁きとしての死に直面していたのです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という叫びは、神から見捨てられた者の叫びです。

 父である神が、イエスを十字架において裁き、呪い、見捨てている。これが十字架の出来事の真相です。イエスは十字架において神から見捨てられ、滅びを体験している。このことを割引して考える必要はありません。イエスは、決して勇敢な殉教者などではなく、罪の塊として神に裁かれ、呪われ、見捨てられ、滅びを体験しているのです。

 イエスの受難には、イエスが人間的にどれほど苦しんだか、どれほどさげすまれ、どれだけ鞭で打たれたか、どれほど多くの血を流したかという肉体の苦しみには焦点はありません。それらはイエスの苦悩のほんの入り口です。イエスの最も大きな苦しみは、罪のない神のみ子である者が神から見捨てられるという苦しみです。罪を犯した人間が神に裁かれるのであれば当然です。しかし、イエスは人となられた神のみ子、罪なきお方です。そのお方が神に呪われ、見捨てられ、滅びを体験しているのです。

 なぜ、イエスはこのように神に呪われ、見捨てられ、滅びを体験しているのでしょうか。イエスが救い主、キリストだからです。神のみ子であるお方が、救い主として罪人のわたしたち人間に代わってくださった。イエスは罪人として、神に裁かれ、呪われ、見捨てられ、滅びを体験している。それは神が聖にして義なるお方であるからです。神は聖なる神、正しい神です。神は罪人の罪をそのままにしてはおかれません。神は罪を憎み、罪を裁きます。罪をそのままにして、神と人との交わりはありません。

 同時に、神は愛なる神です。罪人が滅びることを喜びません。罪人の救いをご計画になる神です。この神の愛と義が、罪なきキリストによる罪人の身代わりという救いの道を設けられたのです。神の愛と義が、神の独り子であるお方の十字架の見捨てと滅びとを実現させたのです。イエスは、父なる神に遣わされて、罪人に代わってすべての罪に対する神の裁きを一身に受けて、神の見捨てと滅びとを、十字架において体験しておられるのです。

 このイエスの十字架の叫び声は、最早、わたしたち罪人が決して見捨てられないことの証しです。ある聖書の注解者は「自分の惨めさを言い表すことの出来る人は、救いをここに見出だすことが出来る」と言いました。自分の罪の惨めさ、神から遠く離れていること、神に裁かれるべき罪人であることを認めることの出来る人は、十字架のイエスの姿に救いを見出だすのです。あなたに代わって、イエスはこのように罪の支払いを済ませて下さったのです。

 十字架処刑の執行官として職務上、正面に立っていたのは百人隊長です。百人隊長がだれも予想しなかったことを語ります。彼はイエスが息を引き取った時、「本当にこの人は、神の子だった」と語りました。彼は異邦人です。イエスの生涯についても何も知らなかったと言ってよい。その彼が、罵られても罵り返さず、周囲の人の罪を赦し、十字架で苦しむイエスの姿を見て率直に告白したのです。「本当にこの人は、神の子だった」と。大事なことは、イエスの十字架をしっかり見詰めることです。十字架を見詰めるところで、救い主、神のみ子の姿を見ることが出来るのです。この十字架のイエスに救いがあるのです。