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第106回 弟子たちの足を洗う

聖書=ヨハネ福音書13章1-10節

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

 

 ここには、「洗足」と言われることが記されています。イエスは死を目前にしています。まもなく捕らえられ十字架で死に「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟」っていました。その時、イエスがなさったことは何でしょう。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。徹底的に愛し抜かれた。その故に、洗足を行われたのです。愛は口先ではなく具体性を持ちます。イエスが弟子たちを愛し抜かれた具体化が洗足です。

 「世にいる弟子たち」とは、だれを指すのか。先ず、イエスと一緒にいる12弟子でしょう。しかし、「世にいる弟子たち」とは12人だけのことではない。現在のわたしたちも間違いなく「世にいる弟子たち」です。さらに「世にいる」とは、どういう意味でしょう。この世性です。この世で生きるわたしたちは、不信仰になり、信仰を捨てることも起こる。それが世に生きるわたしたちです。しかし、イエスはこのような者たちを「最後まで愛し抜かれた」のです。

 当時のパレスチナは、乾季には道が数センチのホコリで埋まり、雨期には泥道になる。民衆が履いていたのはサンダルみたいなもので道のほこりや泥を防ぐことは出来ません。そのため、戸口に水瓶が用意され、召使いがたらいに水を汲み、手ぬぐいで足を洗う習慣になっていました。弟子たちはだれ一人として、家に入った時、汚れた足のこと、足を洗うことに気付いた人はいなかった。我先に食卓につき、良い席を選び、自分たちの中でだれが一番偉いかと議論をしていた。これがイエスの弟子たちの姿です。

 情けない弟子たちです。世の人と少しも変わらない「弟子たちをこの上なく愛し抜かれた」。わたしたちの救いは、イエスの徹底した愛によるのです。イエスは、突然「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」。生き生きとした描写です。福音書記者ヨハネにとって、この出来事は生涯忘れられないものだった。イエスが召使いになって、弟子たちの足を洗い始めたのです。

 イエスは弟子たちの足を洗っていかれます。皆、ポカンとしながら、イエスのなさることに身を任せていました。ペトロのところに来ると、ペトロは驚いて身を引き「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言う。ペトロはイエスのなさることの意味が分からなかった。そこで、イエスは「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。これはペトロの無知を非難した言葉ではありません。ペトロは今、イエスが弟子たちの足を洗ったことの本当の意味を悟ることは出来ていない。しかし、この意味は後から分かるのだと言われた。後になって分かることがあります。

 ペトロはさらに言います。「わたしの足など、決して洗わないでください」と。自分ごとき者のために、イエスがこのように身を低くしていることに耐えられないと感じた。イエスは直ちに「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えました。このお言葉が大事です。弟子たちの足を洗う意味は何でしょうか。

 単なる謙遜ではありません。イエスとの関わりの問題です。足を洗うとは、イエスが罪人を愛し、罪人に仕えた愛の奉仕です。この愛の奉仕の極限が十字架の死です。罪人の身代わりとして裁かれ、罪人として処刑された。ここに罪人に仕える神の御子の奉仕があります。この十字架の奉仕によって、わたしたちは罪が赦され、神との交わりに入るのです。イエスの十字架の奉仕を受けない人には罪の赦しはありません。このことを表すのが弟子たちの足を洗ったことなのです。

 今、わたしたちに求められていることは、感謝して足を洗っていただくことです。ホコリと泥にまみれた足、人前に出して見せたくない汚れている足です。その足をイエスの前に出して洗っていただくのです。恥をかきたくない、自分の足くらい自分で洗えると言う人は、イエスと関わりのない人です。わたしの足は汚れている。その汚れている足を主の前に出すのは勇気がいります。それが自分の罪を認める悔い改めです。

 主イエスが身を低くして足を洗ってくださいます。わたしたちも身を低くして泥にまみれている足を出して洗っていただかねばならないのです。洗足は、主が十字架にかかってわたしたちに仕えてくださったことを表しています。わたしたちは、自分の罪を認めて主の十字架の血潮で洗っていただくのです。これが主イエスがなさった洗足の意味なのです。