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第102回 失望せずに祈れ

聖書=ルカ福音書18章1-8節

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 

 主イエスは、いろいろな機会に祈りについて語られました。祈りは、神を信じる者の呼吸と言っていいでしょう。主イエスは今、ここで祈りの大切なことを例え話をもって語られたのです。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」。「気を落とさずに」とは「失望せずに」ということです。祈りの1つの問題は失望、落胆です。祈っても応えられないと感じる。祈っても虚しいと想う。祈りを始めた人がそこでつまずいてしまう。主イエスはこの感覚を見ているのです。そこで、主イエスはこの例えをもって失望落胆せずに、絶えず祈り続けるようにと教えられたのです。

 主イエスは、裁判官に粘り強く訴え続けるやもめの例えを語られました。「やもめ」とは夫を失った女性のことです。当時、やもめの社会的な立場はたいへん弱かった。いじめに遭う、無理難題を持ち込まれる、不公正な取り扱いを受ける。訴えの内容は記されていませんが、不公平な取り扱いを受けたのでしょう。思い余って裁判に訴えたのです。ところが、この裁判官は賄賂によって私腹を肥やすのを常としていた。裁判官本人が「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」と言っている筋金入りの悪徳裁判官です。賄賂でも持っていかないと採り上げてもらえません。その代わり賄賂によっては有利な判決をしてくれるような人でした。

 貧しくて賄賂が払えないやもめの訴えなど採り上げません。「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった」。門前払いです。しかし、やもめは毎日、裁判官のところに行って懇願しました。裁判所に通い詰め、裁判官の行く先々に付きまとった。うるさいようにやって来て「わたしのために裁判してくれ」と訴えた。その結果「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」となった。彼女の粘り強い訴えが勝ったという物語です。

 この例え話を何気なしに読むと誤解をしかねません。悪徳裁判官と神をダブらせて、この例え話を読んでしまいかねないことです。ただ執拗に祈ればいい、神を祈り倒すように激しく祈らねばならないと理解すると、大きな間違いです。実はそのように理解する人も多いのです。「神を祈り倒す」と言う表現をした牧師に出会ったことがあります。

 では、わたしたちはこの例えから何を学ぶのでしょうか。1つは「祈りの熱心、熱心な祈り」です。この時代、社会の仕組みが男中心です。やもめは、何の力も持ちません。自分の力でいじめや社会的不公正を正していく力がない無力な存在です。ただ訴えるしかなかった。これがキリストの弟子の姿だと、主イエスは言われたのです。キリスト者は自分の力や能力で幅をきかせてこの世を生きていくのではない。富の力で生きるのでもない。キリスト者はただ神に頼って、神に訴えて生きる以外ない弱い存在です。弱さの中で生きる道が祈りです。赤ちゃんが生まれてきて、ただ1つの頼みは母を呼ぶことです。お乳を求めて、泣いて母を呼ぶ。いのちの限り神を求めて神を呼ぶ。これが求められている祈りです。

 第2は、わたしたちに対する神の愛と真実です。悪徳裁判官の例えは「類比の例え」ではなく、「対比の例え」です。「まして神は」という短い言葉があります。「まして、愛と真実に富む神は」という対比の例えです。この「対比」の意味が分からないと、神を祈り倒すような恐ろしいことが起こります。悪徳裁判官とやもめとは何の関係もありません。縁戚関係も賄賂のような武器もない。ひっきりなしに行って訴えるしかなかったのです。

 しかし、神とわたしたちの間には強い関係があります。キリストを信じる者は、神によって「選ばれた人」です。キリスト者は神の選民です。この選びの背後に、神の愛があります。その愛に基づいて、わたしたちを救いの恵みに選び出してくださったのです。祈りの背後には、このような神との愛の関係があるのです。神は必ず確かに祈りに応えてくださいます。

 わたしたちは熱心に祈っても、願いがすぐに応えられないと失望します。疲れてしまう。せっかちです。大事なことは忍耐をもって失望せずに祈り続けることです。神が応えてくださることは確かです。祈りの応えには神の時があります。神の時があることを知らねばなりません。神が祈りに応えてくださるという確信をもって、失望することなく、疲れ果てることなく、忍耐して祈って待ち続けたいものです。