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第101回 子どもをキリストのもとに

聖書=ルカ福音書18章15-17節

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

 

 キリスト教会は、伝統的に子どもを大切に扱ってきました。これは他の宗教と比べても特異なことと言えるでしょう。キリスト教会のほとんどの集会で、子どもが疎外されることはありません。いつの時代でも、子どもたちをどのように取り扱うか、どのような姿勢で子どもたちを迎えるかは、教会にとって極めて大切なことになっています。教会の将来は子どもにかかっています。教会の死命を制するような大事と言っていいでしょう。

 子どもを大切に扱う教会の伝統は、実はユダヤ教会から引き継いだものでもあります。それと共に、特に主イエスが繰り返し弟子たちに教えられたことでもありました。上記の聖書個所は、その代表的なところです。

 主イエスが多くの人たちに教えていました。その時、幼児を連れてきた親たちによって静けさが破られてしまいました。連れて来られたのは赤ん坊から幼児、少年に至るまでの子たちです。ワイ、ワイ、ガヤ、ガヤ、騒がしい。乳飲み子は泣き出す。静かにイエス様の話しを聞くことが出来ると思っていた弟子たちは、カッとなって泣き喚く子を連れてきた親たちを「叱った」のです。子どもや赤ん坊までもイエスに「触れていただく」必要はないという気持ちもありました。

 弟子たちの気持ちのどこかに、子どもや赤ん坊には神のこと信仰のことなど分らないだろうという思いがあったかもしれません。主イエスは弟子たちの中に知らず知らずの内に生まれている誤った考えを正そうとされたのがこの出来事です。自分がキリストの恵みにあずかったら、他の人も誘うのが当然です。まして、親が自分と一緒に子をキリストの元に連れてくるのは自然な情です。自分の子にキリストの恵みを共にいただきたいと願うのは親の自然な願いです。これが本来のあり方です。

 ところが、今日、日本の教会では、子どもを教会に連れてくることが少なくなっています。いろいろな理由が考えられます。キリスト教の集会を音楽のコンサートや講演会と考え違いしているのではないでしょうか。子どもには宗教を強制させたくないと考えているのでしょうか。日本的な習慣、無関心、遠慮などがそうさせているのかもしれません。

 主イエスは、このようなわたしたちに、はっきり言われます。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と。これが乳飲み子・子どもに対する主イエスの基本的なお考えです。考え違いを正し、遠慮を棄てて、自分勝手な思いをも捨てて、主イエスの子どもに対する御心をしっかり受け入れることです。

 騒ぐから、悪戯するからと言って、キリストのもとに子どもが来るのを妨げてはならないのです。なぜでしょう。子どもにとってもキリストが主であり救い主だからです。乳飲み子という存在がなぜ大切なのでしょうか。彼らは、力無き者、無力な者の代表なのです。説教を聞いても分からないからと礼拝から幼児を排除することは、説教がよく分からない人や老人たち、障がいを持つ人などを排除することとなるのです。説教は分かって貰わなければ困るけれど、説教がわからなくても救いはあります。神の祝福はあるのです。神は幼児の唇によって賛美され、無きに等しい者をあえて選ばれる神であることを受け止めることがキリスト教信仰の基本です。

 この基本が忘れられ、エリート意識が教会の中に入ってくる時に、教会は崩れていきます。「無きに等しい者をあえて選ばれる神」、ここに福音があります。この福音の基本が忘れられるところで教会が変質してきます。ですから、主イエスは多くの人の面前で弟子たちを叱ったのです。弟子たちにとって、この事件は恥ずかしいことでした。しかし、この恥ずかしい自分たちの失敗を3つの共観福音書の執筆者たちはほぼ同じ文章で書き残しています。自分たちの失敗を隠しません。主イエスから自分たちはこのように公然と叱られた。自分たちの失敗を明記して、教会の中にいつでも起こってくる危険性を指摘しているのです。

 主イエスは、「神の国はこのような者たちのものである」と言われました。これは幼児即天国入りということではありません。大人が幼児・子どもに学びなさいということです。「子供のように神の国を受け入れる人」とは、神に信頼する人ということです。乳飲み子はお母さんの語る言葉を素直に信じます。これこそ信頼としての信仰の基本です。信仰は信頼です。神への信頼、神の言葉である聖書への信頼、伝道者の語る言葉への信頼という基本的信頼が失われるならば、信仰は成り立ちません。素直な信頼があって信仰が成立し、教会が成り立つのです。信頼は神の国に入る条件です。幼児を招く主イエスのお言葉はわたしたちの信仰にとっての生命線です。

 主イエスは集まってきた子たちの一人一人に手を置いて祝福されました。幼児の祝福、幼児の受け入れと言って良いでしょう。幼子への神の祝福を受け止めることは、神の祝福の素晴らしさとその大きな広がりを受け入れることです。キリストの教会を形成し、その営みを考える時、幼子の持つ視座を見失ってはならないのです。幼児を祝福する主イエスのお姿を心のキャンバスに描いてみて下さい。神の恵みの祝福が、わたしたちの家庭と教会とを豊かに包んでくれるのではないでしょうか。