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第100回 弱さの中に現れる神の恵み

聖書=コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章9-10節

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

 今回は、「人の弱さ」についてご一緒に考えたいと願っています。人は基本的に弱いのです。人は多く弱さを抱えて生まれて来ます。肉体的な弱さ…病気、精神的な弱さ…病、社会的な欠陥…劣悪な状況での生育、その他に後天的な障害など、数多くあります。これらの「弱さ」を克服して生きる人たちも数多くおられます。しかし、克服など出来ない弱さも多いのです。

 人間であるとは「弱さを持つ存在」であり、わたしたちは皆、何らかの弱さを抱えて生きているのです。そして、最終的には、この弱さは「死に至る」ことであると受け止めなければならないのです。これらの弱さを抱えて、どのように生きたら良いのか、生きる道さえ分からずに途方に暮れる人たちも多いのではないでしょうか。社会で生きる中で、弱さを隠して、強いように見せかけて生きるような場合もあります。出来るだけ、「弱み」を見せないで生きていこうとしてしまいます。その結果、「躁鬱」になったり、反社会的行動に走ったり、してしまいます。

 実は、わたし自身も、多くの弱さを持って生まれてきました。幼少期は腺病質で直ぐに風邪を引きました。仕事に就いてからは編頭痛に悩まされました。中年になると椎間板ヘルニアが加わりました。人の話す声や物音も不快に感じ、家族に当たり散らすようなことも多々ありました。そのような時に示されたのが、上記の聖書個所でした。上記の新共同訳ではなく、以前の古い口語訳でもう一度読みましょう。コリント人への第二の手紙12章9節「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全に現れる」。

 この文章は、使徒パウロという人が、病み、痛み苦しんだ時、神に祈った。その時、神から祈りの答として与えられた主キリストのお言葉です。パウロは、初代教会の異邦人伝道において大きな働きをした人です。エルサレムから小アジアへ、さらにギリシャ、ローマへと福音の宣教を大きく展開させた人物です。しかし、彼は肉体的には大きな棘(とげ)を持っていました。激痛を伴う発作的な病気のようでした。ある学者は「てんかん」では、と推測しています。

 パウロは、この自分の病を取り除いてくださるようにと、主に3度も祈ったと記しています。「離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った」。その祈りに対しての神の答えが「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全に現れる」という言葉でした。パウロも、病気がつらかったでしょう。何とかいやされたい、健康になって力強く生きたいと思ったでしょう。この病気がなければもっと奉仕できると考えたかもしれません。

 しかし、この主の言葉を聞いて、パウロはハッと気づいたのです。「ああ、わたしに弱いところが与えられているのは、自分の生涯において神の恵みの力が十分に現れるためだ。もしも、自分に弱いところがなかったならば、人の弱さを思いやることも、神の恵み深さも分からないのだ」と悟ったのです。この自分に与えられた弱さ、病いは、自分が高慢にならないためのものであり、人の弱さを知り、思いやることが出来るためであることに気付かされたのです。

 新共同訳では「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように」と訳しています。これは、弱さを受け止め、弱さを持つわたしたちの人生、生涯を神の恵みとして受け入れる根拠となる御言葉です。「キリストの力がわたしの内に宿る」という翻訳の理解の仕方もすばらしいと思います。しかし、わたしは新改訳の訳し方に心ひかれます。「キリストの力がわたしをおおうために」と訳しています。

 キリストの力が、「内に宿る」と共に、わたしの弱さを「おおい包んで」くださるのです。ここに、わたしたちが感謝をもって、自分の弱さを受け入れて、積極的に人生を生きる力の源泉があります。神の恵み・キリストの力が、弱さを持って生きるわたしたちの人生すべてをおおい包んで、わたしたちの生涯が神の恵みを映し出す舞台として用いられるのです。

 この時から、パウロは自分の弱さを受け入れるだけでなく、「大いに喜んで自分の弱さを誇ろう」と語ります。人生が転換したのです。そして「弱さ」を肉体的な弱さ…病だけでなく、侮辱、危機、迫害、行き詰まりという社会的な出来事にも視野を広げて見ていきます。このような多くの障害に出遭っても、「キリストのために満足している」と言うのです。わたしたちも同じように弱さを持っていますが、この弱さの中で、神はわたしたちの人生を用いて、神のいろいろな恵みを現してくださるのです。わたしたちは、弱さを受け入れ、むしろ誇りとして生きようではありませんか。