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第95回 新しい歌を主に向かって歌え

聖書=詩編96編1-13節

  新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ/諸国の民にその驚くべき御業を。

  大いなる主、大いに賛美される主/神々を超えて、最も畏るべき方。諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ/御前には栄光と輝きがあり/聖所には力と光輝がある。

  諸国の民よ、こぞって主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り/聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。

  国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ/海とそこに満ちるものよ、とどろけ/野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め/森の木々よ、共に喜び歌え/主を迎えて。

  主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き/真実をもって諸国の民を裁かれる。

 

 明けましておめでとうございます。新しい2021年を、御言葉を学ぶことによって始めましょう。旧約聖書・詩篇96編を取り上げます。この詩は、バビロン捕囚から解放されて、イスラエルの人たちがエルサレムに帰国し、新しい神殿を建てます。その新しく建てられた神殿における礼拝への促しの言葉、神賛美と神殿礼拝への招きの言葉です。

 詩の作者は「新しい歌を主に向かって歌え」と、呼びかけます。「新しい歌」とは、どういうことでしょう。「最近の流行歌」でしょうか。いっとき人々の注目を浴びて歌われる。半年、一年すれば忘れられていく。この詩が語る「新しい歌」は、決してそのような新しさではありません。人間的な新しさではなく、神の恵みの出来事、救いの出来事の賛美は常に新しいのです。古びることのない永遠の新しさと言っていいでしょう。神がイスラエルの民をエジプトから救い出してくださった。そして今、バビロン捕囚から解放してくださった。新約の今日のわたしたちで言えば、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪と滅びの中から救い出された。この救いの恵みを歌う歌が常に「新しい歌」なのです。

 この新しい年、力一杯、救いの恵みを喜び、感謝して神に向かって賛美の声を高く挙げていきましょう。コロナ禍で、縮こまり、賛美の声を高らかに挙げられなかった。しかし、今年は声高く歌いましょう。賛美は、同時に祈りです。「主に向かって歌う」、ここに神の祝福を求めて祈る信仰の姿勢が現れているのです。祈ることは、決して個人的なことではありません。祈りと賛美とは基本的には1つです。賛美することは、祈ることの1つの現れです。そういう意味で、今年、わたしたちは祈りと賛美に富む者となりたい。

 この詩の作者の視線は大きな広がりを持っています。「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ」、「国々に触れて言え」と、世界の人々に視線を向けているのです。自分たちがバビロンから解放され、神殿を再建して、そこで礼拝を捧げることが出来る。しかし、それだけでよしとしなかった。詩人は、神殿礼拝に集まった人々に、「主に向かって歌え」と呼びかけると共に、「日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ」と、神の救いの出来事を伝えることを呼びかけているのです。

 過ぎし年、縮こまって伝道も自由に出来なかった。今年は精一杯、伝道の声を挙げましょう。この詩は、全世界に向けての福音宣教の祈りです。神を賛美することは、同時に、「その神の救いの物語を宣べ伝える」ことです。神を賛美することは、それによって、さらに多くの人たちを神への賛美に招く行為なのです。わたしたちの祈りがここにあります。神礼拝に集うことは、神の恵みの物語を伝える宣教の業なのです。

 この詩人は、「天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ。海とそこに満ちるものよ、とどろけ。野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め。森の木々よ、共に喜び歌え」と、呼びかけています。被造物すべてに、神を喜ぶことを呼びかけているのです。山川草木、海と地に満ちるすべての生き物が、神賛美に加わるのだ、という呼びかけです。壮大な呼びかけです。

 皆さまの中には、ペットの動物を飼っている方もおられるでしょう。その動物たちも神賛美に加わるようにと招いているのです。終わりの時が来て、すべてのものが新しくなる時、神を賛美するのは人間だけでなく、神の被造物全体が救いの恵み、解放の恵みを喜び歌うのです。わたしたちの大好きな動物たちも野の草も、一緒に壮大な神の救いの恵みを寿ぎ歌うのです。

 このような終わりの時の到来を視野において、わたしたちは家族と隣人の救い、さらに「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ」と祈るのです。すべての人たちが、神に立ち帰るところで救いと終末の完成があるのです。このための執り成しの祈りを捧げることこそ、この年のわたしたちの切なる祈りであり、務めなのです。切なるうめきをもって、執り成しの祈りをささげるものとなってまいりたいものです。

 「国々にふれて言え、主こそ王と」と歌われます。これは主なる神の王権の宣言です。この王権は、決してこの世の世俗的な支配権ではありません。イスラエルだけでなく、世界に救いの恵みが行きわたる恵みの支配です。それは、主なる神が王として支配してくださる終わりの時です。その時、天も地も、そこに置かれた人たちも自然界も救いの喜びを歌うのです。

 この詩は、その待望を歌って終わります。「主は来られる」と、主の来臨が語られます。主の王権が天において示されるだけでなく、この地にて現実になることを予告しているのです。わたしたち、この新しい年、主の来臨を待ち望んで祈りましょう。「願わくば、御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。……」と。今年、このような祈りをささげて歩んでまいりましょう。