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第90回 不信仰の原因

聖書=マタイ福音書13章53-58節

イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

 

 今回は、この聖書個所から「不信仰」について考えてみました。不信仰はいろいろな原因がありますが、その一つを取り上げましょう。

 主イエスはガリラヤ湖畔で多くの働きをなさった後、故郷のナザレにお帰りになりました。イエスが青少年期を過ごしたところです。安息日にナザレの会堂でも教えられました。すると、イエスの話を聞いていた人たちは驚きました。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と。

 ナザレの街の人たちも、イエスの活動について聞いていました。ガリラヤ地方でなされたイエスの多くの働き、御業を伝え聞いていたのです。そして今、直接、会堂でイエスの語る言葉・メッセージを聞いたのです。この時、イエスがどのような説教をしたのかは記されてはいません。しかし、律法学者のようにではなく、権威ある者として神の御言葉を力強く、分かりやすく語ったのではないでしょうか。

 ところが、これを聞いたナザレの街の人々は、イエスの語ることの素晴らしさを認めると共に、軽蔑と侮りをもって反発したのです。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」と。

 このイエスという男は、つい数年前まで、我々の仲間だった。この街で大工をしていた。母親も兄弟たちもこの街に住んでいる。こう言って、イエスを敬うことなく、その語る言葉に従おうとはしなかったのです。イエスにつまずいたのです。ナザレの街の人たちがイエスにつまずいたのは、イエスの中に何か欠点や欠陥を見出してのことではありませんでした。彼らがイエスの幼少年期から十分に知り、その血縁者たちをも知り尽くしていたからです。

 今日、一部の人たちですが、「イエス様を身近で知り、イエス様のお話を直接聞くことができたら、もっと早く信仰にも入り、もっとしっかり信仰がしたでしょう」と言われる方がおられます。イエスの細かなあれこれを知り、イエスへの直接性を持つことが大事だという一種の敬虔主義と言っていいでしょう。こういうところから、聖地巡礼などの聖地信仰が芽生えてくるのではないでしょうか。これは極めて危険な方向性です。

 イエスの郷里の街、ナザレの人々は、人間イエスについて直接的によく知っていた人たちです。しかし、彼らはイエスの人間的な側面を知っていた故に、かえってそれらの知識が邪魔をして、人間イエスの中に身を低くされた神の子の神性を見極めることが出来なかったのです。

 神のみ子キリストは、地上の低い一人の人間イエスの中に身を低くして宿られ、人となられたのです。丁度、イエスが語られた畑の中に隠されている宝のようなものです。低くなられた主イエス・キリストの本当の姿は、わたしたちも低くならなければ見えてこないのです。ナザレの街の人々は、人間的な近さが高慢となり、かえってキリストの真実から遠ざけられてしまったのです。イエスご自身が「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言われた通りです。人間的な知識、人間的な近さは、イエスに近づく道ではありません。その知識の故に、かえって主イエスの真のみ姿を見失ってしまうのです。

 聖霊によって新しく生まれ変わるという回心…悔い改めと信仰がなくては、真の主イエス・キリストの姿を見ることは出来ません。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と記されています。イエスが神の子で全能の力を持っておられたら、どうしてその力で人々を信仰に導かなかったのかと考えます。しかし、イエスは決して人の自由を奪って、人の心の中を支配して信仰を起こさせようとはなさらないのです。

 では、何によって人の心の中に信仰を起こさせてくださるのでしょうか。御言葉と、その御言葉と共に働く聖霊の働きです。イエスは、御言葉を語られます。その御言葉を通して、一人ひとりの心の中に働き、その人の自由な決断を通して神とキリストを信じることを望んでおられるのです。そして、御言葉と共に働く聖霊の働きにより、心を照らし、イエスが真の救い主であることに気づかせてくださるのです。心を落ち着けて、思い込みを捨てて、イエスの語られる言葉を心を低くして受け止めることです。

 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネ黙示録3:20)。