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第89回 気づきの「時」があります

聖書=ルカ福音書18章31-34節

イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

 

 久し振りに感動をもって政治家の演説を聴きました。アメリカのジョー・バイデン次期大統領とハリス副大統領候補の演説でした。その中に、聖書・コヘレトの言葉3章1節から自由な引用がありました。「何ごとにも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という言葉の後に「植える時、収穫する時、いやす時」と続きます。最後の「時」は「平和の時」です。

 わたしたちの身の回りでも「時」があります。上記の聖書個所は、信仰にも「気づきの時」があることを教える大切なところです。イエスは最後のエルサレム入りをする直前に12人の弟子を集めて言われました。12人はイエスが3年半ほど直接教育してきた人たちです。その人たちに、これからご自分の身に起こる受難の死と復活を予告した言葉です。

 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する」。旧約聖書の中で、そんなに多くメシアの受難と復活が明示されているわけではありません。おぼろげです。むしろ、多くのユダヤ人は旧約聖書を律法の書として読みました。人が生きていくための教訓の書として読むのです。メシアについてもモーセやダビデのような力をもってイスラエルを解放する栄光のメシアを読み取ったのです。

 ところが、イエスはまったく違った聖書の読み方を示されました。旧約は、受難のメシアによる救いの道が提示しているという読み方です。これこそイエスが「聖書はわたしを証しするもの」と言われた読み方です。イザヤ書53章などを土台とする受難と復活のメシアの姿です。罪と救済という視点から旧約を読むと、これこそが基本的なメッセージであることが分かります。旧約聖書の中に、受難のメシアの姿を読み取るのがイエスの読み方であり、キリスト教会はこのイエスの読み方を受け継いできたのです。

 イエスはご自身に関して4つのことを明示されました。1つは「人の子は異邦人に引き渡され」です。同胞から見捨てられると言われた。2つは「侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる」と言われた。罵られ、辱められ、侮辱を受けます。3つは「彼らは人の子を、鞭打ってから殺す」と言われた。ここにイエスの苦難の頂点があります。この地上から抹殺されるのです。しかし、それで終わりではありません。4つは勝利です。「人の子は三日目に復活する」と言われました。イエスははっきり三日目の復活を語られたのです。

 イエスは、このようにご自分の受難の死と復活について繰り返し弟子たちに語っているのです。イエスの十字架の受難の死と復活は決して突然起こった出来事ではありません。イエスは繰り返し弟子たちに語られたというのが、福音書記者ルカが記すことです。

 しかし、福音書記者ルカが記す大事なことは、このように、繰り返しイエスが明らかに語っていながらも、弟子たちには意味が分からなかった、ということです。彼らは理解できなかったのです。この事実をはっきり記しているのです。「十二人はこれらのことが何も分からなかった」。どういうことでしょうか。今日から見たら不思議なことです。イエスが、繰り返し丁寧に教えていることが、弟子たちに分からなかった。イエスは比喩をもって分かりにくくしているわけではありません。受難と復活を明確に語っているのです。そして、12弟子は人間的に見て、そんなに愚かな人たちではなかった。しかも、イエスのもとで信仰教育を受けてきた人たちです。それでも、「分からなかった」、「理解できなかった」のです。

 弟子たちが分からなかった理由が記されています。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて」と記されていることです。「隠されている」とは、埋められている、覆われているという意味です。実際にそこにあるのだが気づかない、という意味です。

 実は、聖書の言葉には、その意味について気づく、「気づきの時」があるからです。イエスが語った言葉が、弟子たちに本当に分かるためには、解き明かしが必要なのだということです。解き明かしてくれるのは「聖霊」です。聖霊が与えられて、その時に、ああそうかと悟るのです。

 やがてペンテコステの時を迎え、弟子たちに聖霊が圧倒的な力をもって臨んでくださいました。この聖霊こそ、イエスの言葉を理解することのできる力を与えてくださるのです。聖書は頭のよい人が読むと分かるというものではありません。聖霊の助けが必要なのです。イエスがエマオ途上で二人の弟子たちに解き明かしてくださったように、聖霊が助け主として働いて、わたしたちに聖書の言葉の意味を説き明かしてくださいます。教会は聖霊の臨在される場です。教会の礼拝と交わりの中で聖書が読まれ、解き明かされていくのです。その時に、「ああ、そうか」と気づきが与えられていくのです。教会の礼拝に参加してみてください。