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第88回 網が一杯になる

聖書=マタイ福音書13章47-50節

「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 

 この聖書個所も、主イエスが語られた「天の国」の例え話です。主イエスは「天の国は…」と語り出します。ここで例えられている「天の国」は二重になっています。1つは、究極的な世の終わりに完成する「神の国」と言っていいでしょう。2つは、その前段階にある、この世の漁です。この漁師の活動で例えられているのは弟子たちの活動する「キリスト教会」と言っていいでしょう。主イエスが語ろうとしているのは、弟子たちの具体的な「教会の活動」です。この例えによって教会の希望を語ると共に、そこにある危険への警告も与えているのです。

 例え話は、弟子たちの生活経験から語り出されます。地曳き網漁を考えてください。ガリラヤ湖の漁師であった弟子たちは、毎日、何度も網を湖の中に入れていたことでしょう。網が一杯になると、皆で力を合わせて岸に引き上げます。「網が一杯になる」と、主イエスは言われました。網が破けそうになるほど一杯になることは、漁師たちにとっては大きな喜びでした。

 主イエスが語ろうとしている第1は、弟子たちの奉仕によって教会が一杯になる祝福です。主イエスはガリラヤ湖の漁師たちを召して弟子として、こう言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ福音書4:19)と。この時から、イエスの弟子たちは、主に従って、主と共に、人間をとる漁師となって、教会を建てあげていくのです。福音を宣べ伝える働きは、人間の世界に大きく広げられた地曳き網と言っていいでしょう。

 この漁の例えが物語ることは、福音が至るところに宣べ伝えられて、教会は一杯になる、大きな祝福を受けるということです。日本の教会は、いろいろな難題に取り巻かれてなかなか大きく成長しません。「小さくてもいいんだ」と自虐的にもなります。しかし、主イエスは「網が一杯になる」と言われました。キリスト教会は、日本でも多くの人で一杯になるという祝福の約束です。「一杯になる」という語は「満たす、成就」という言葉です。主イエスは弟子たちを用いて福音を宣べ伝えて、教会を満たしてくださいます。伝道の稔りが豊かであることを成就してくださいます。この成就を望み見て、福音宣教の奉仕に励みたいと願います。

 しかし、その祝福の中で厳しいことが語られています。地曳き網は、岸に引き上げられてから選別が行われます。あらゆるものが入ってしまう地曳き網漁ですから、中には腐ったもの、食べられないもの、ゴミなども入ってきます。それらが選り分けられて、食べられるものだけが選び出されます。ここに語られていることは、教会が大きくなった時の課題です。キリスト教が社会に受け入れられた時、教会は世俗化していきます。ヨーロッパ世界でのキリスト教会の姿がここにあると言っていいでしょう。しかし、ヨーロッパ世界でのキリスト教会の姿は決して他人事ではありません。わたしたち日本の小さな教会の中にも世俗化は、もう始まっています。

 主イエスは「座って」と言われました。大漁は大きな喜びですが、落ち着きを失ってはなりません。落ち着いて教会の基本的な姿勢を問い直さねばなりません。表面的に教会員になっていても、キリストに結ばれていない者、腐敗している者、正しい信仰から逸れている者、キリストに信頼するのではなく世の富に信頼する者などが出てきます。教会は、そのような存在を吟味して、教育・訓練をしっかりしなければならないのです。教会の大切に責任です。

 わたしたちの小さな教会の中にも、時に「甘え」が支配します。何をしても、どんな無作法をしても許される。一般社会では許されないことも、教会は「赦しの共同体」ではないかということで許されてしまうことがあります。「ゆるし」のはき違え、勘違いです。「キリストの赦しの恵み」の重みをしっかり受け止めて、互いに赦し合うことの真実を追い求めていきたい。パウロは「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。」(Ⅱコリント書13:5 新改訳2017)と記します。自分の信仰の在り方を自己吟味することが求められているのです。

 このように厳しく語るのは、この地上の教会の在り方が、終末において完成される教会、天における神の国へと至る道だからです。「世の終わりにもそうなる」からです。この地上におけるわたしたちの教会の具体的な営みは、完成される天の国のひな形で、天の御国へと引き継がれていくのです。天における大きな喜びと成就とを望み見て、今の時の福音宣教の奉仕を続けてまいりましょう。