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第87回 欠けているものが、まだ1つ

聖書=ルカ福音書18章18-23節

ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。

 

 今回は、上記の聖書個所からお話ししましょう。現在はコロナ禍のただ中で、多くの人に貧困が差し迫っています。しかし、その中でも豊かな人たちもいるようです。多くの富を持ち、余裕のある生活をしている人たちに、主イエスは語りかけているのです。「あなたにも、本当に必要なことがあるのではないのか」と。

  「ある議員がイエスに尋ねた」。「議員」とはユダヤの最高議会の議員のことです。ユダヤはこの時代、ローマ帝国の支配下にありましたが日常生活と宗教に関わることはユダヤ人議会の自治に委ねられていました。祭司長、律法学者、長老たち70人が集まる議会・サンヘドリンの議員であることはたいへんな特権と名誉を持っていました。「その人は…大変な金持ちだった」と記されます。富と権力を持つ人でした。

 この人が、主イエスに「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたのです。富と権力、名誉を手にしても、彼に不安がありました。永遠のいのち、即ち救いは別のことです。富と権力を持っていても救いを手に入れることは出来ない。彼はこのことを知っていたようです。そこでイエスのもとに来て尋ねたのです。

 主イエスも、彼の真剣な問いに対して真剣に応えています。主イエスは「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われました。これらは十戒の後半部分です。しかし、この返事は彼には期待はずれでした。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言います。イエスの返事に対する失望の言葉です。しかし同時に、自分を満足させる言葉でもありました。幼い時から律法を忠実に守ってきた自負がある。彼は富を持つだけでなく、生活も模範的に生きてきた自信があった。

 これに対して、主イエスははっきりお答えになります。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。このイエスのお言葉を聞いて、彼はショックを受けた。これは彼だけのことではないでしょう。今日のわたしたちもつまずきを覚えるのです。「その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである」。彼は結局、非常に悲しみながらも、イエスの元から去って行ったのです。

 彼の問題の一つは、富・財産に依存して生きていたことです。彼の名誉も権力も富の上に成立していた。それだけでなく、永遠の命を求める宗教心も富と財産の上に成立していたのです。主イエスは、これを鋭く見抜かれたのです。「あなたに欠けているものがまだ一つある」とは、どういう意味の言葉なのでしょうか。聖フランシスコのように一切の財産を捨てることなのでしょうか。十戒を守るだけでは足りない。十戒に上乗せして「一切の財産を捨てて施しをしろ」と命じられたのか。そうだとしたら、これは第11番目の戒めになります。しかし、主イエスは新しい11番目の戒めを付け加えられたのではありません。

 主イエスが語られたのは、十戒の後半部分が持つ意味の広がりと深さを教えようとされたのです。わたしたちも十戒を朗読します。その時、「父母を敬え」、大丈夫だ。「殺してはならない」、わたしは殺人者ではない。「姦淫してはならない」、浮気していない、合格だ。「盗んではならない」、盗みなどしたことはない。…よし、わたしは十戒に合格だ。内心でそう思いながら十戒を朗読していないでしょうか。もし、そうだとしたら、わたしたちもこの議員と同じです。

 主イエスは、マタイ福音書22章39節で、十戒の後半部分を「隣人を自分のように愛しなさい」と要約しました。この十戒要約の言葉を思い出していただくと、主イエスが語られた言葉の意味が分かってきます。十戒は、盗まなければいい、人殺しをしなければいい、姦淫しなければいい、という消極的な戒めではありません。自分を愛するように隣人を愛する、隣人を積極的に活かすことを教える規定なのです。隣人に仕え、隣人と共に生きる規定です。自分だけが豊かであればいい、自分だけ富んでいたらいい、のではない。十戒は自分が生きると共に、隣人を愛し、隣人を共に生きることを教える規定なのです。

 主イエスは、この人に、その富・その財産を用いて、隣人と共に生きようとしているか、隣人を愛し、隣人に仕え、隣人を活かしているか、と問うているのです。この視点が「なお、一つを欠く」という言葉の意味なのです。あなたは十戒の持つ最も基本的な意味を理解していないのではないか、という指摘です。わたしたちもまた、この危機の時代の中で、隣人と共に神を愛し、隣人に仕えて、隣人と共に生きる社会の形成を目指してまいりましょう。この生き方をすることが、主イエスに従い、永遠のいのちに生きることなのです。