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第83回 賢い者に隠されている神の知識

聖書=マタイ福音書11章25-27節

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」

 

    今回は、この聖書個所から「神の知恵」についてお話ししようと思います。わたしは前々から不思議に感じていたことがあります。キリスト教は、しばしば知的な宗教と言われることがあります。聖書自身、「知る」ことの重要性を語っています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ福音書17:3)。「永遠の命」とは、人の救いのことです。神によって救われるためには、神とキリストを知る・知解することが必要だということです。このため、キリスト教は「知解を求める信仰」と言われてきたこともあります。

 しかし今、ここではっきりと、主イエスご自身が違ったことを語っておられるのです。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と。「これらのこと」とは、神が人々を救う道についてです。神は、救いへの道を、知恵ある者や賢い者に隠して、「幼子のような者」に示されたというのです。これは、どういうことでしょう。「幼子のような者」とは、あまり知識のない者という意味なのです。

 実際に、キリスト教会の中に身を置いて、周囲を見回すと、キリスト教会の中では知的な人々などは数少ないのです。大学の先生などはあまりいません。むしろ、日本では高度に知的な人たちはキリスト教をあえて避けているのではないかと思うほどです。多くの文学者や哲学者なども聖書をよく読んではいるようですが、最後のところ信仰への道は歩みません。もちろん、すべてに例外はあります。すばらしい学者で敬虔な信仰者である方々もおられます。けれど、数は少ないのです。キリスト教会に集う圧倒的に多くの人たちは、「ただの人」、普通の人たちです。この人たちが「幼子のような者」と言われているのです。

 これは非常に大切なことです。キリストの最初期の弟子たちの中心は、ガリラヤ湖の漁師であり、徴税人、罪人と言われていた遊女や遊び人たちでした。パウロのような律法学者出身もいますが例外です。このような状況は、今日の教会でも基本的に変わっていないのではないかと思っています。この事実は、聖書自身が認めています。「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(Ⅰコリント書1:20-21)。

 キリスト教は、決して知的な人々の宗教ではありません。貧しく、何を食べ、何を飲み、何を着るかという日常の生活に不安とおびえを感じている人たち。病におののき、人の言葉に傷つき悩む人たち。生きることに疲れ果てている人たち。差別され、抑圧されている人たち。新型コロナウィルスの感染禍の中で苦しみうめく人たち。このような人たちが、神の救いを求めて真実に祈る信仰……これがキリスト教信仰なのです。

 旧約の詩人は,このように祈っています。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(詩編130:1-2)。このように祈り求める人が、主イエスの言われている「幼子のような者」なのです。この人たちに救いへの道が開示されているのです。このような人たちの切実な祈りに応えて、神はご自身を現してくださり、救いの道を示すだけでなく、現実に救いの恵みと祝福を与えてくださるのです。キリストに祈り求めてください。キリスト教会は、決して知的な人々のサロンではなく、日々の生活の中で苦しみうめきながら、神を仰ぎ、祈り訴える者たちの集いなのです。