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第79回 まことの指導者なき悲哀

聖書=士師記21章25節

そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。

 

  今回は、上記の旧約聖書・士師記21章25節の短い1節からお話しします。先日、7年8ヶ月の長期にわたって首相として在任した安倍晋三氏が辞任を表明しました。その後、後継者問題で論争が続いています。このメッセージがアップされる頃には後継者が決まっているのではないでしょうか。しかし、だれであっても、今の自民党の中からは国家の「まことの指導者」と呼びうる人は出てこないでしょう。残念なことです。

 「折々のことば」では、率直にわたし自身の想いを訴えていますが、このショートメッセージでは、あまり政治のお話などはしないようにしております。しかし、今回は上記の御言葉に励まされ、最近の日本の政治の状況にかかわって話してみたいと思います。

 安倍首相の下で、日本の国は取り返しのつかない方向に歩み出したと思い、たいへん不安になっています。戦後の民主主義教育を担ってきた教育基本法が改悪され、教育の方向が国家主義の方向にねじ曲げられています。それに続いて、内閣法制局長官を差し替えて強引に憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にしました。さらに議会を軽視し、法を無視し、行政の透明性・公平性、公文書記録の破棄などによる民主主義政治の根幹を揺るがしたことです。最後に、新型コロナウィルスの感染禍では、首相としての責任感、指導力のなさが露呈しました。

 以前、ある企業の歴史を取り扱った書物を読みました。企業が、大きく成長したり、危機に瀕したりするのは、制度と言うよりも指導者の存在にかかっていると記していました。指導者に人を得ないと、制度を表立って変更せずとも、実質的に危機への道を歩み始めてしまうのです。

 国も同じことではないでしょうか。旧約聖書にこのような言葉が記されています。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」。士師記21章25節です。ここでの「王」とは、専制君主としての王ではなく、「まことの指導者」を意味しています。イスラエルの民は、荒れ野の生活から約束の地カナンに導き入れたヨシュアの死後、全体を統率する指導者を失しなっていました。

 紀元前12世紀から前10世紀頃にかけての長期の期間、イスラエルの人々は、国としての理念を見失い、定めのない歩みをし、文字通り弱肉強食の混乱した時代でした。モーセによって社会形成の原理としての「十戒」を示されながらも、それを無視して、部族同志で互いに足を引っ張り合い、偶像崇拝にふけり、その罪のために国が腐敗し、疲弊しました。近隣の国々から侮られ、侵略され、民が苦しんだ時代です。

 この混乱の時代の中で、士師という臨時の指導者が起こされて、一時は救われますが、また罪を犯すということの繰り返しです。このようなイスラエルの国の状況を、旧約聖書の士師記では総括して「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」と記しているのです。つまり、指導者も国民もすべてが、手前勝手、自己中心に生きたということです。

 今日の日本の社会事情とたいへんよく似ているのではないでしょうか。民主国家形成の原理としての憲法がありながらも、それが無視され、軽視され、自分勝手な方向に走っているのです。格差が増大し、困窮する人々が増し、憎しみと差別が増大しています。しかも、人々は健忘症になり、刹那的に生き、本質を見ようとはしていません。日本の今日の姿は、士師記のイスラエルの姿とオーバーラップして見えているのです。まことの指導者なき国の姿です。

 どこの国、いつの時代でも、基本的には同じでしょう。まことの国家指導者に求められる最も大切な資質は、唯一の神を信じる信仰を持つことです。はなはだ迂遠のことのように思われるでしょう。しかし、天と地を造られた唯一の生けるまことの神を畏れ、神を主として仰ぐのでなければ、すべての人間の平等、人格の尊厳、いのちの尊さ、貧困からの解放などに、真剣に取り組む指導者にはなれないでしょう。わたしたち人間は罪人です。自分勝手に、自分の正しいと思い込むことをするだけなのです。神を畏れるまことの指導者が、この国に生まれることを祈らずにおれません。「救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。」(詩編3:9)