· 

第76回 悔い改めと赦しの共同体 

聖書=ルカ福音書17章1-4節

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

 

 この「インターネット・オープンチャーチ牧場」をご覧になっている方の中には、「教会に失望した」という方もおられるのではないでしょうか。牧師と衝突したり、教会員たちの騒動に嫌気がしたり、という方も多いのではないかと思っています。

 教会は、キリストを信じる信徒の群れです。しかし、その中で問題が起こります。主イエスは「つまずきは避けられない」と言われました。主イエスは極めて現実的です。弟子たちの中に罪や争い、誤解、醜態が起こることを十分に知っておられます。教会は聖人君子の集りではなく罪人の群れです。何年も教会生活をしてきた人が「教会の中にあんな人がいるのは耐えられない」と言う。主イエスは群れの中に争いや騒動はないという甘い理想主義は持っていません。教会がこの世にある限り、つまずきは避けられない。このことをしっかり見据えておられます。

 「つまずき」とはスキャンダロンという語で「罠」「噛みつくもの」という意味です。「つまずき」と言うと小石程度を考えます。この「つまずき」はもっと決定的なものです。鳥や獣が罠にかかると捕らえられ殺されてしまう。「つまずき」は、信仰の成長を一時停滞させるだけでなく、信徒をキリストから引き離して滅ぼしてしまう重大な結果をもたらせます。

 「つまずき」は、対人関係と言っていいでしょう。教会は対人関係で苦労します。人の態度や行いに失望して信仰を離れる。愛のない言葉や配慮のない振る舞いも起こります。これらのことは、どれほど注意しても起こりうることです。逆に、配慮にばかりに気を付けていては、自由な自然な振る舞いを萎縮させてしまう。愛のない言葉や配慮のない振る舞いには十分に気を付けねばなりませんが、どんなに注意しても欠けは出ます。その意味では、教会の交わりは罪赦された罪人の群れであることを互いに自覚し合う以外ないのです。

 次に、悔い改めと赦しについて語られています。人をつまずかせることも罪ですが、罪を犯している兄弟を知っていながら見過ごすのも罪なのです。「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。主イエスは「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい」と教えています。

 完全な人、完璧な人はいません。指導者と言えども失敗し、罪を犯します。ですから、互いに戒め合うのです。戒め合うことが群れを成長させていくのです。人に嫌な思いをさせるのは嫌だと、罪を見逃すことは愛ではありません。愛は、むしろ戒め合うのです。日本のキリスト教会の形成で、この点が一番失敗しています。戒め合うことがなかなか出来ない。互いに甘え、もたれ合いの構造が出来てしまいます。愛をもって、同じ罪を犯す者同士として戒め合うこと、信仰の道筋に戻ることを勧めることが、教会の大切な使命であることを自覚してまいりたい。

 主イエスは、さらに大切なことを教えられました。それは赦すことです。「悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。戒め合うこともむずかしいのですが、もっとむずかしいのは赦すことです。日本では「仏の顔も三度まで」と言って、赦すことにも限度があると考えます。クリスチャンも同じように考えるのではないでしょうか。

 キリスト者が何か間違いを犯します。何回か同じようなことで失敗すると、牧師も教会員たちも、あの人は信用できない、あの人はだめだとレッテルを貼ってしまう。主イエスは「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と言われました。「無限に赦せ」と言われたのです。うわべだけの悔い改めだとか、一時的なものだなどと言わないで、悔い改めてきたのであれば、完全に赦すのです。また失敗してもいいではないですか。また悔い改めれば条件つけずに赦すのです。

 わたしたちも実は、繰り返し罪を犯しているのです。わたしたちの繰り返しの罪と失敗を、毎週の主の日の礼拝において繰り返し赦していただいて立ち直っていくのです。キリスト者は、このキリストの赦しの恵みの中で生きています。赦しの恵みの中に生きている者として、互いにまた赦し合って生きていくのです。