第75回 キリストに従うには

聖書=マタイ福音書8章18-22節

イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

 

 主イエスは弟子たちと親密な交わりをされていました。当時のユダヤ教ファリサイ派の師弟関係とは非常に違った温かな血の通ったものでした。ここには、主イエスに従う者の覚悟が語られているのです。一人の律法学者がイエスに近づいて「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。イエスとその弟子たちとの関わりと交わりに感動したのでしょう。同行を願い出たのです。

 すると、主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われたのです。恐らく、この律法学者は主イエスのなさった説教、いやしの恵みのみ業、弟子たちとの親しい交わりの姿を見て、感動したのでしょう。しかし、一時的な感動や感激は長続きしません。キリストに従う道は、いつの時代でも決して華やかなものではありません。地味な苦労の多い道なのです。

 主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」という言葉で、ご自身の生活の姿と十字架への道を示されたのです。主イエスのご生涯は安住とか安定とかは関係ありませんでした。借り物の飼い葉桶から始まり、人々の罵りの声を受けて十字架につけられ、借り物の墓で、この地上の生涯を終えられました。主イエスに従う者には、このような自己放棄が求められているのです。

 次の人は、「弟子の一人」でした。もうすでに主イエスに従うことを表明し、事実、イエスの弟子たちの交わりに加わっていました。ところが、この人が主イエスに「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言ったのです。当然な願いと言ってもいいでしょう。キリストの弟子であっても肉親の葬儀を行うことは間違いではありません。葬りの式を行うことは、故人を生かした神の恵みを覚え、遺族を慰め、復活の希望を告知する大切な務めです。葬儀を行うことと、主に従うこととは、決して矛盾することではないはずです。

 それに対して、主イエスは「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われたのです。主イエスは人の気持ちの分かるお方です。それなのに、このお言葉は冷たすぎるのではないか、としばしば批判されます。どういうことでしょう。それは「主よ、まず、…」という彼の言葉にあると言えます。この言葉の中に、葬儀という一見もっともらしい彼の願いの根底にあるものを鋭く見通しておられたのです。

 試しに、「父を葬る」という理由の個所に、他の家庭的、社会的なさまざまな理由を入れてみてください。「先ず、子どもを育ててから」、「先ず、両親を見送ってから」、「先ず、……してから」キリストを信じます、献身して伝道者になります、となるのです。これでは、いつになっても主イエスの召しに本当には応えられないでしょう。主の召しには時があります。時を失ってはなりません。主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ福音書7:33)と言われました。キリストを信じる者は、「先ず、何を第1にするか」が問われているのです。わたしたちは、いったい「先ず何を」第一に意識して生きているでしょうか。