第72回 もう少し待ってください

聖書=ルカ福音書13章6-9節

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

 

 主イエスが「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき」と言われた時、聞いていた人たちは、ああこれは自分たちを指していると悟ったしょう。ぶどうもイチジクも、旧約では神の民イスラエルを指すものでした。このイチジクの木は、たまたま生えてきたのではなく、主人が自分の意志で植えたのです。主人は1本のイチジクの木を植え、実を得ることを願っていました。ここでは1本に意味があります。独自性、個別性、その成熟が期待されています。ぶどうの木が受ける配慮と同じ配慮を受けました。肥料をやり、水を注ぎ、細心の配慮をしてきたイチジクの木です。ふさわしい実の収穫を期待して植えられました。

 主人が「実を探しに来た」。植えて翌年に実が成るものはありません。「桃栗3年、柿8年」と言われます。イチジクの木は多くの場合、実生ではなく小枝を切って土に挿す挿し木で増やします。すると3年ほどで実が成るようになる。このイチジクの木も植えてから3年ほどで実が成ると期待されていたようです。ところが3年目で実が成らない。もう一年、もう一年と、さらに3年待ったが稔りがないのです。

 ついに、主人は園丁に言います。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ」。この言葉から主人は短気な性格だと思うかもしれません。しかし、そんなことはありません。実を結ぶには植えてから3年かかる。その三年目に楽しみに来てみたら何もなっていない。もう一年待とうと手入れをして1年後に来てみたら、なっていない。2年、3年目になっても何もない。主人は3年間ジッと忍耐して待ってきたのです。さすがに忍耐深い主人が「切ってしまえ」となったのです。

 ところが、園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。園丁は、主人からぶどう園をあずかって管理し栽培する人です。実際に面倒をみてきた木に対する愛着があった。この段階になってもイチジクの木を見捨てません。「ご主人様、もう一年待ってください」と言う。この園丁の中に、わたしはキリストを見るのです。園丁であるキリストが「待ってください」と執り成しているのです。

 ある聖書学者はこの個所に表題を付け「執行猶予」としました。主人の判断は既に下されています。「切り倒せ」です。園丁も主人の判断をくつがえしているのではありません。ただ、園丁はすぐにではなく、もう一年猶予してください、と言うのです。特別に手入れして待ちましょう。それで駄目なら切り倒しますと1年間の執行猶予の願いです。期限が切られている。この1年は365日の1年ではなく、黙示録が語る象徴的な意味での1年と理解しています。しかし、期限までに実がなっていないなら、切り倒されるのです。

 イチジクの木が求められている稔りとは、何を示しているのでしょうか。わたしたちの神への立ち帰りです。悔い改めと信仰です。この園丁であるキリストの執り成しは主人によって聞き入れられました。しかし、このイチジクの木が、次の年、実を成らせたかどうか、主イエスはお語りになっていません。結論を語らないのです。わたしたち、一人ひとり答えを書かねばならないのです。悔い改めとは、行いや生活を改めることでなく、神に向き直ることです。

 基本はわたしたちの視線の向きです。どこに向いているのか。わたしたちの視線は、いつも自分に向いています。自分のことだけを見ている。自分の関心、自分の利益、自分の家族、自分の損得。自分だけ何故、こんな悲しい目に遭うのかと、自分にだけ焦点を当てる。その結果、劣等感に悩み、うぬぼれ、自慢し、反対に人を軽蔑する。焦点を自分に当てている結果です。

 自分に向いている目を、神に向けてみましょう。これが悔い改め、方向転換です。すると分かってきます。神が、わたしたちを愛して、赦しの手を差し伸べていることが。わたしたちもこのイチジクの木と同じではないでしょうか。神は、わたしたちが神に向かって生きることを待っておられます。罪を悔い改めて神に立ち帰り、神と共に生きることが「実を結ぶこと」です。神は、キリストによる赦しの恵みを用意して、わたしたちの神への立ち帰りを待っておられます。