第67回 思い悩むな

聖書=マタイ福音書6章25-26節

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

 

 わたしたちは今、新型コロナウィルスの感染禍の中で、生きるための苦しみを味わっています。直接的なウィルスの感染による命の危機と共に、生活していくための苦しみを抱えているのです。イエスが語られたように、人は「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と、日常の生活、生きるための課題を抱えて思い悩むのではないでしょうか。

 とりわけ、コロナウィルスの感染禍で、多くの人々の生活は逼迫しています。外出の自粛、営業の自粛などで職や仕事を失い、収入が途絶したような人たちが多く出てきています。途方に暮れ、自暴自棄に陥り、不安におののいています。政府や自治体などからの早急な支援体制が求められています。わたしたちは、あらゆる支援体制に目配りしつつ、困難の中でも、しっかりと生き抜いていこうではありませんか。

 それと共に、上記の主イエスが語られた御言葉に目を留めていただきたいのです。これは弟子たちを対象にした説教の一部ですが、心と魂の平安を求める多くの人に慰めと確信とを与えてくれるところです。2千年前のイエスの時代と今日では経済のシステムも社会の有り様も相当違っていますが、「生活で思い悩む」ことは同じです。

 わたしたちが生活の思い悩み、思い煩いから解放される道が語られているのです。それは「摂理してくださる神」がおられるということを知ることです。「摂理」(せつり)という言葉を使いました。キリスト教用語の1つです。「摂理」とは、神が生きて存在し、わたしたちのために配慮し、保護してくださるという神の働きの全体を物語る言葉です。神は、わたしたちを見捨てるお方ではなく、わたしたちの命と生活を守り支えていてくださるお方なのです。

 イエスは、わたしたちにもの言わぬ空の鳥や野の花に目を留めて、謙虚に学ぶようにと言われているのです。空の鳥や野の花は「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしません」。まことに無力な存在ですが、しかし、神は彼らの命の授与者であり、保護者として働き、養っておられるのです。この事実をしっかりと受け止めなければなりません。まして、わたしたちは「神の形を担う」はるかに優れた存在です。神は、わたしたち人間にしっかりと目を留めて、わたしたちの命と生活とを守り抜いてくださるお方なのです。

 わたしたち人間は、自分の手の中にあるものを勘定して一喜一憂します。富や物に信頼して、実は思い煩っているのです。しかし大事なことは、神が生きて働いておられること、神はすでにわたしたちのすべての必要を知っておられることを悟ることです。これが「信仰」と言っていいでしょう。この生きて働いておられる神、摂理しておられる神を受け入れるところで、思い悩み、思い煩いから解放されるのです。幼子のような信仰です。幼児は母親の懐に抱かれているならば、どこにあってもスヤスヤと眠ることができるのです。

 もう一つ大事なことは、摂理しておられる神を信じて、今日一日を精一杯に生きることです。思い悩む人によくあるのですが、今を誠実に生きていない場合が多いのです。「今」という時を大切にしないで「将来」を手に入れることはできません。「明日」を神の御手に委ねて、与えられている今日一日を精一杯、積極的に生きてまいりましょう。