第65回 暗い顔を捨てよう

聖書=マタイ福音書6章16-18節

断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 

 今なお、わたしたちは新型コロナウィルスの感染禍の中に置かれています。外出も仕事も思ったように出来ません。自由に遊びにも出かけられません。自宅軟禁で禁欲を強いられているような状況です。そのため、イライラが昂じているのではないでしょうか。

 ここには断食のことが語られています。しかし、イエスはここで決して断食を勧めているのではありません。わたしたちは今、断食を強いられているかのようなイライラした生活をしています。そのようなわたしたちに対して、信仰生活の基本的な在り方を語られているのです。

 イエスがここで教えている1つは、信仰者の生活は神のまなざしを目当てにした生活であることです。断食は、本来、身も心もすべてを集中して神に向けるための修練です。神以外のものに向かうような心、雑念を捨て去るための修練です。ところが、神に向けられるべき集中の中で、他人のまなざしが気になるのです。「どう、思われているか」と。

 このことは、今日に生きるわたしたちも決して無縁ではありません。他人がどのように評価してくれるかによって、自分の値打ちまで決まってしまうように思う。だれかが、自分の悲しみやつらさを分かってくれないと言っては、腹を立てる。他人の目が自分の生き方の基準になるとき、わたしたちの生き方は右往左往することになります。

 しかし、イエスは「沈んだ顔つきをするな」、「見苦しくするな」と語るのです。人が見てくれる、人が評価してくれることで計算が成り立つような生き方はするな。それは本物の信仰生活ではない。信仰の生活は、あなたと神との間のことだ。神のまなざしの中に立て。そこに身を置くのだ。そこだけが、信仰者の生きる場所ではないか、と言われているのです。

 イエスが教えてくれるもう一つのことは、信仰者の生活の基本は「喜び」であると言うことです。「断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」。これは、どういうことを意味しているのでしょうか。ある聖書の学者は、これは喜びの行為であり、あたかも祭りの時のように着飾ることの表現であると記しています。当時のユダヤ人たちが信仰生活は断食のような苦しいものと考えたのに対して、イエスはキリストを信じた者の生き方は祭りの時のような喜びの生活なのだと言われたのです。苦しみの中でも、なお喜びがあるのです。

 イエスは、マルコ福音書2章18-19節で、こう語られました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」と。これは例えですが、イエスの弟子たちの生き方、信仰者の生活は、婚礼の席に招かれている者たちの在り方であると言われたのです。生けるキリストと共にある喜びの生活なのです。

 使徒パウロも、これを受け止めて、こう語るのです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」(フィリピ書4:4-5)。難しい暗い顔をするな。神の喜びを映し出すような生き方をしようではないか。主イエスはわたしたちに、わたしが一緒にいるではないか。一緒に喜ぼう。暗い顔を捨てて、喜びの顔を輝かそうではないか、と言われているのです。