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第61回 心を騒がせるな

聖書=ヨハネ福音書14章1,27節

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。……わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」

 

 今、わたしたちはたいへんな時期の中におります。新型コロナウィルスの感染禍のため、緊急事態宣言の下におりますが、収束はまったく見えてこず、さらに1ヶ月程度の延長が求められています。「スティ・ホーム(家におれ)」ということで、出歩くことも出来ず、人の心がささくれ立ち、疑心暗鬼にさせ、攻撃的にさせています。止まってしまった経済活動は弱い立場の人たちを直撃し、生きることが困難になっています。「これから、わたしたちはどうなるのだろうか」という不安が、多くの人の心を覆っています。

 わたしたち人間の心は、まことに弱く、何かがあるとすぐに心を騒がせ、不安を感じ、動揺します。「何を食べ、何を飲み、何を着ようか」と、生活の不安に襲われると、普段では考えられない、とんでもない行動に出る場合もあります。自分だけが心を騒がせるだけでとどまらず、激昂して周囲に当たり散らして、社会的な迷惑を掛けることも起こります。

 普段は「自分は冷静だ」と思っている人であっても、少し大きな問題が起こると、たちまち冷静さが崩れてしまいまうのではないでしょうか。このような緊張や不安で心騒ぐとき、あなたは、どうなさっていますか。少し以前には、「心を鎮めるためのグッズ」と呼ばれるものが流行したことがあります。美術館で心休まる名画を見たり、音楽会などに行くことが出来たら幸いなのですが、「三密」になるということで身動きも出来ません。心の激動をいやされたいと願っていても、かないません。バーチャルな世界では、心底からはいやされないのではないでしょうか。

  主イエス・キリストは、わたしたち人間に本物の平安を与えてくださるお方です。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と言われました。この「平和」は「平安」と訳すべきでしょう。争い合う者たちの中における「平和」と言うよりも、人の心が騒ぎ、波立つ時に与えられる心の平安なのです。主イエスは、まもなく十字架にかかり、死に、そして天に帰られます。弟子たちにとって、まさに危機にありました。自分たちは、これからどうなってしまうのか。不安と緊張に陥りました。

 その時、主イエスは弟子たちに、まず「心を騒がせるな」と言われ、その後、すぐに「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と勧めます。先行きが見通せずに不安と緊張で心が騒ぐようなとき、人の魂の奥底までしみとおり、心をいやし、平安を与えるのは、神とキリストを信じる信仰なのです。信仰は単なる処世術ではありません。人生に落ち着きと方向性とを与えてくれる最も大切なことなのです。

  黙々と十字架を担われた主イエスのお姿を思い起こしてください。わたしたちの罪を担い、贖いの道を歩んでくださいました。十字架を担う主イエスのお姿を心の中に思い浮かべる瞑想(めいそう)こそ、わたしたちに与えられている平安の源です。「世が与えるように与えるのではない」。主イエスの十字架による救いと平安は、決してバーチャル・リアリティではありません。わたしたちの本物の救いの根拠であり、本物の平安が与えられるのです。

 どんなに緊張と不安にさらされても、わたしたちはこの十字架の道を歩むイエスを主と信じて仰ぐところで、主イエスに結ばれて、この主イエスからまことの平安を受け取ることが出来るのです。主イエスと結ばれ、主イエスと一緒に人生の道を行くのです。このキリストを見失うところで、「心騒がせる」ことが起こります。主イエス・キリストを見上げていきましょう。