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第56回 地の塩・世の光として生きる

聖書=マタイ福音書5章13-16節

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

 

 この個所も「山上の説教」の続きの部分です。最初に9つの「幸い」が語られています。この部分だけを「山上の説教」と理解する方もおられますが、実際は異なります。マタイ福音書5章から7章末にかけてが「山上の説教」です。これらは、イエスが折々に弟子たちに語られた説教を編集して、山上において弟子たちに語った勧めの言葉として一纏めに編集したものと言っていいでしょう。

 このところでは、主イエスの弟子たちに対する社会的な使命について語られています。キリスト教の信仰は「使命」を持って生きることを問題としています。信仰を持ったら、その後は天国を夢見て過ごすというだけのものではなく、この世界において責任を持って生きるという信仰なのです。

 主イエスは「あなたがたは地の塩である。…あなたがたは世の光である」と言われました。これは「塩となれ、光となれ」という命令ではありません。懸命に努力して、今から塩となり光となるのではありません。キリストを信じて生きているそのままで、すでに「塩であり、光である」のです。キリストを信じて生きる者となった時から、この世の中で新しい異質な存在になっているのだと言うことです。この世が持っていないものを持つ者となっているのです。

 キリストを信じた者の第1の使命は「塩」として生きることです。塩はあまり見栄えしませんが、影響力は絶大です。塩の最も大切な働きは腐敗を防ぐ働きです。政治の世界も、経済界も、市民の世界も、科学技術の世界さえも、人の生きる世界は絶えず腐敗と堕落にさらされています。この腐敗と堕落とを防止することが地の塩としてのキリスト者の使命です。

 塩はまた、味付けをします。ほんの少しの塩気が、食べ物を生かし、味わいあるものとします。この社会の隠し味となるのがキリスト者の存在です。食物に混じって、塩の姿が分からなくなった時、食物は味付けられ、腐敗が防がれ、塩としての働きがなされているのです。「地の塩」とは、地域の中に溶け込み、社会の一員として、しかし、キリスト者として生きる姿なのです。

 キリストを信じた者の第2の務めは、「光」として生きることです。「光」は自己を示すのではなく、暗闇を照らし、道を示すためのものです。闇の中にうごめいているものを明るみに出すと共に、灯台のように人の進むべき道を指し示す働きをします。光は、塩とは逆に、隠してはならず、高くかかげねばなりません。聖書では、本物の光は「キリスト」であると語ります。キリストを信じる者は、この真の光の担い手であり、光であるキリストの証人なのです。光であるキリストに照らされて、わたしたちもまた光を分有するのです。

 どのようにして、わたしたちが「地の塩、世の光」として生きるのでしょうか。塩も光も大量にはいりません。「からし種一粒」ほどの信仰とも言われます。むき出しの激しい信仰でなくていいのです。静かな落ち着いた信仰の在り方でも、「キリストが心の中に住んでおられる」のなら、それでいいのです。わたしたちの内に住むキリストが、わたしたちを用いて、塩として、光として、働いてくださるのです。