第55回 十字架の息づかい

聖書=ヨハネの手紙Ⅰ 3章16節

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために、命を捨てるべきです。

 

  いかがお過ごしでしょうか。桜の花も開花して日中は暖かさを感じる頃になりました。しかし今、わたしたちの国だけでなく、世界中が新型コロナウィルスの感染で覆われています。今年の夏に予定されていたオリンピック・パラリンピックも大幅に延期されました。このコロナウィルスの流行のために、市民の活動も大幅に制約されています。市民的受難の期と言っていいかもしれませんね。

 今回は、上記の聖書個所から、主イエスのご受難にまつわることをお話しします。教会では、この時期をレントと言い、主イエス・キリストのご受難を覚えて生活し、時を過ごします。このレントの時期を主イエスの十字架の苦しみを覚えて祈り深く生活していきましょう。

 もう一度、聖書を読みましょう。同じ新約聖書のヨハネの第一の手紙3章16節ですが、「新改訳2017」という新しい翻訳で読んでみます。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」。

 愛の使徒と言われているヨハネらしい味わいのある言葉ではないでしょうか。使徒ヨハネにとって、主イエスの十字架の出来事は、生涯、忘れがたいものとして心の中に刻み込まれました。主イエスが祭司長たちの手によって捕らえられた時、たいへん残念なことにほとんどの男の弟子たちは逃げ去っていました。主イエスの十字架の出来事をしっかりと見守っていたのは女の弟子たちでした。しかし、その中で、ヨハネだけは女性たちに混じって十字架の下で、主イエスの言葉を十分に聞き取ることのできるところにいました。

 主イエスは、苦しみの十字架の上から、この弟子のヨハネに、母マリアのことを、自分の母として託されたました。この後、ヨハネは「イエスの母を自分の家に引き取った」と記されています。実にヨハネは十字架の下で、十字架に架かって苦しみ呻くキリストの息づかいまでも聞いた人であったと言っていいでしょう。

 そのヨハネが今、わたしたちに語りかけているのです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」と語ります。主イエスの十字架の苦しみは、わたしたちのためのものでした。わたしたちの罪が赦されるためのものでした。ヨハネは、主イエスの十字架の下で、その苦しみの息づかい、血の滴り落ちる音までも聞き取ったと言っていいでしょう。腹の底まで揺り動かすような主イエスの呻きと苦しみの声を聞いたヨハネが、「そのことによって、わたしたちは愛を知りました」と語っているのです。

 「愛を知る」。これは決して小さな言葉ではありません。弟子のヨハネが生涯かけて語ったのは、主イエスの十字架によってこそ、神の愛が分かるのだと言うことでありました。この「愛を知る」とは、2つの面があります。1つは、今申し上げました神の愛です。神が愛して下さったこと、わたしたちは神に愛されていることです。このキリストの十字架において示された神の愛によって、罪によって滅びるべきわたしたちが罪を赦されて神の子とされるのです。神の愛は、イエス・キリストの十字架の身代わりによってきっちりと示されました。神が、このわたしを愛して、わたしの罪のためキリストを罪の贖いの犠牲として献げてくださいました。この受難週の時、神の愛について思い巡らせて、この愛を受け止めていただきたいのです。

 もう1つは、わたしたちも、この神の自己犠牲の愛を受け止めて、互いに愛し合う隣人への愛を知ることです。神が最も大切な神の御子を犠牲にされたことを覚えて、わたしたちもまた隣人のために犠牲を捧げることです。わたしたちに与えられている最も良いものをもって隣人に仕えてまいりたい。受けるだけの愛ではありません。隣人に献げる愛と仕えて生きる歩みをしてまいりたいと願っています。

 どうか、主イエスのご受難を覚えるこの時期に、わたしたちのために命を捨ててくださったキリストの愛を知っていただきたい、と願っています。今年、2020年のイースター(復活節)は、4月12日(日)です。